2016年後半
今年も8月の立秋を過ぎて、年の後半に本格的に入りました。春分レポートで語ったことは、今年後半になると雰囲気がガラッと変わって、突然良い流れが出てくる、、、一方で、現政権は突然の解体となる変化の可能性も、、、という内容を語りました。
現在の状況を見てみますと、参院選は自民が一応勝って安定的な形となり、これで憲法改正も視野に入れられるとの観測が一般的になっています。
何も変わってはいない、、、となるわけで、突然良い流れが出てくる気配も今のところありませんし、現政権が解体する兆しもありません。
残念ながら私の予想ははずれた結果になりつつあります。それでも負け惜しみとなるかもしれませんが、今週の天皇のお言葉はこれまでにない、新たな視点を国民に投げかけたことも事実です。
天皇のお言葉が新たな流れを作ることになるかどうかは、まだわかりませんが、多少マスコミに変化が出てきたのではないか、、、という印象があるので、そこに期待したいものです。
私は占星術師ということもあり、物事の表よりも裏に隠された真実を追求しようとする癖が昔からあります。
それは外れることもあり、的外れに終わることもありますが、たまにはまさかという未来を読み解く場合もあります。
政権と天皇の関係に緊迫したものを感じたのは、かなり以前からでした。
実際に緊迫していたかどうかは私にはわかりませんが、陛下のお言葉や宮中歌会始めにおける御製と呼ばれる天皇の和歌を通して、私は確信としてそれを感じていました。
夕闇の迫る田に入り実りたる稲の根本に鎌をあてがふ
という御製に込められたお気持ちは、確信的であるというのが私の考えでした。
そしてついにその意味が今週分かった気がいたしました。実はその御製の1年ほど後に、現実ではなく、暗喩としての偶然ではあるものの、世に出たふたつの数字が気になって仕方ありませんでした。
熊本の地震が起こる直前に自衛隊の飛行機が行方不明となり、山中の墜落した死者が複数出た事件がありました。
その飛行機のナンバーが確か、125だったのです。
そして近くで起きた熊本地震の本震の時刻が1時25分でした。
もちろんこれは偶然であり人為的な側面はないに決まってはいるのですが、運命的な暗喩として、私は気になったのです。
今上陛下は125代の天皇陛下です。125代が責められる偶然の暗喩があり、天皇の御製には、国の根本を変えるご決意が出ている、、、、天皇陛下は孤独にも非常に大きなものと戦われているという暗喩が、シンボルとしてですが暗示されて見えたのです。
もちろん現実にそうした対立があるというのではなく、あくまで暗喩の中におけるシンボル世界での出来事としてです。
しかし、現実には何の力もない、、、というのがフリーエネルギーから来る私の考えですから、シンボライズされた意識の世界こそが実は真実を告げていることは多いのです。偶然は何ひとつこの世には存在しません。
天皇のお言葉は、ですから大変なエポックになりえるものです。その影響があまりに大きすぎて、どうとらえるか、すべてが戸惑っている段階です。
ということは、今後陛下のお言葉の上に9月以降の流れが新たに始まることとなり、それは大きな変革の可能性を秘めているわけです。
私の予想が的中したなどと言うのではなく、大きな変化の可能性が出てきたことは確かだということです。
世界も春分時点とはかなり異なってきています。金融はほころびを隠し切れないところまで行っています。アメリカ大統領選挙は、このままいけばトランプ氏となり、そうなったら日米同盟は反故になる可能性もあります。
日本の対米従属の根本の形は無となり、現政権の維持は困難になることでしょう。
さらに経済異変が起こらないとも限らない現在の状況が追い打ちをかけ、混乱は予想をはるかにしのぐことになるかもしれません。
現在の安定して見える状況は一夜にして変化する脆弱性を見せつけることとなるかもしれません。
春分図にあるように、その後は民生が優位となる政治に激変することでしょう。あくまで今の段階ではその可能性がある、、、ということに過ぎませんが、その芽が見えてきたことだけでも、これまでの予想をはるかにしのぐ時代に私たちは今、生きていることがわかります。
さて、そこで私が占ったように、急激に素晴らしいことが起こるのか、、、という点ですが、はっきり言って自信はありません。しかし自身の受け止め方よりも星の暗示が正確であることを何度も体験していますので、今でもそういうしかありません。
きっと何か素晴らしい未来につながることがあり、それが起こることを期待しています。
その一つに私事で恐縮なのですが、フリーエネルギー理論にもとずく実験で、未来への夢が出てきています。
詳細は語りませんが、私はすべての病気は簡単に治るという思いに至りました。また、若さを保つ方法もおそらくあると思うようになりました。
具体的には、光と光を2方向から一つの場に照射することでフリーエネルギーを得る、、、という私の考えです。
もちろん医学的にも科学的にも認められたことでありませんので、病気が治るとかは言うことができませんし、あくまで勝手に思っている、今のところ個人の感想です。
ただ、皆で実験したいという思いはあります。これが知れ渡ったら、現代の常識はすべてくつがえりますから、場合によっては私は殺されかねないことになるかもしれません。
それは困るので、治療とか病気が治るとか、健康になるとか、一切、そうしたことは言いませんし、そうした効果があるかについても、語る立場にありませんことを、はっきり申し述べて置きたいと思います。
ただ、皆で実験はしたい、、、もしかしたら、何か変化があったら面白い、、、という姿勢なのです。
原理は飯島先生から教わった原理を単に光に当てはめただけの話しです。
物には何の力もなく、エネルギーは無からしか来ない、、、
無とは単なる無とは違い、拮抗する無の状態、、、例えば、ゼロ磁場であったり、地球と拮抗して人が立つ姿からも、足裏からエネルギーが入る、、、とした無です。
また、ギャップが起これば、それを元に戻そうとする力が必ず働く、、、、それは無からやってくるエネルギーそのものです。
このフリーエネルギー理論を光に当てはめると、一つの光ともう一つの光を1か所に重ねるようにして照射する、、、そこには光同士が干渉しあい、ギャップを作ります。
光同士のギャップを埋め合わせようと、元に戻そうとする力が新たに加わります。それが無のエネルギーを連れてくるのです。
そのため、照射された部位にはエネルギーが満ちてきます。
私の結論は、2方向の光を1か所に重ねて当て、どちらかの光を揺らすことで、ギャップを確実にしさえすれば、そこにエネルギーが訪れる、、、ということになります。
このことが本当とは言いません。そんなことは科学では一切扱いませんので、迷信となりますが、それでいいのです。
迷信のおまじないでもいいし、迷信の実験を多くの人にやってもらいたい、、、という希望があるわけです。
私は色々と実験しましたが、勝手ですが、前述した感想を抱いたわけです。
必ずそうなるというのではなく、私の場合はそうした感想を抱いた、、、ということです。みなさんの感想を聞きたい、、、という気持ちが高まっています。
本当に簡単です。光を2つ、、、同じ個所に当て、どちらか、もしくは両方の光を軽く揺らす、、、ただそれだけの実験です。
何かの変化が起きるか、、、起きないというのが常識で科学的なことだと思いますが、もしかして、何かの変化が起きたら、、、、という思いです。
私自身は、それによってエネルギーが取り込めると思っているのです。しかし、勝手な私個人の感想です。
現代の科学的には、人体にエネルギーを取り込む方法は食糧を食べる、、、ことです。飲んだりも。
また、薬の栄養などもあるでしょう。いずれにしても、何かどこからか体内に取り入れることでその成分を栄養にする、、、エネルギーにする、、、という形です。
しかし私はその考えは間違っているという立場です。物には何の力もないという考えです。
物以外からエネルギーを得る、、、それは無からしかありません。そしてもし無からエネルギーを取り入れることができたら、一切の副作用がなくなります。
人間はエネルギーを食物から取ったり、薬から取ると考えていますので、生きるためには、必ず副作用を伴う構造になります。
食べ物は胃袋を酷使しますす、薬は特に顕著です。食べ物からエネルギーを取り込むと、必ず、なんらかの副作用があるのです。
外部から取り入れるエネルギー総体と、副作用による害とで寿命ゲームを行っているとも言えるでしょう。
しかし、万が一、一切の副作用なしにエネルギーを取り込むことができたとしたら、その意味はどうなるのか。
無から来るエネルギーは一切の副作用を起こしません。無なのですから、消化する必要などないからです。
無からエネルギーを取り込む、、、すなわちフリーエネルギー時代とは、人がいくつまで生きてもおかしくない時代ということにもなるわけです。
それだけの可能性がフリーエネルギーにはあります。
実は今でも本当は誰でもフリーエネルギーによって生きていられるのです。
先ほど述べた、食物によってエネルギーを得ると、副作用が多い、、、という考えも、実は嘘だと私は思っています。
物には何の力もないのですから、毒にも薬にもならないのが本当です。
無の代表は意識ですので、無からやってくるエネルギーというのは、意識がもたらすものなのです。
意識がすべての現実をつくりますので、食べ物によって生きているという意識の上で、常識が作られます。
そこに毒があったり、栄養があったりしているだけなのです。そして毒の意識とフィットした場合、毒となり、栄養の意識とフィットした場合、栄養になるだけなのです。
本当は無のエネルギーしかエネルギーはないのですが、その出どころが意識なので、すべてが意識にしたがってしまうため、物にこだわる意識の下にあっては、あたかも物に力があるかのように錯覚してしまうのです。
こうした考えは、もちろん、現代では認められませんので、単純な光と光を同時に重ねて照射するだけでエネルギーが得られる、、、という話しも誰も信じられなくて当然なのです。
しかし事実は事実だと私は思うのです。信じるうお座の時代に嘘を信じ込ませられた私たち、、、、知ることによってそこからの解放を図らねばなりません。
大きく大きくだまされているのです。人は本当は永遠に生きられる可能性すらあるのです。