十字架上のイエス
普通11月も下旬になると、まだ寒さへの耐性がないためか、体感的には一年中で一番寒い時期とも感じられるのに、このところの温かさは異様な程です。
今年の冬は暖冬でほぼ間違いないと新聞に書かれていましたが、どうやらそんな予兆を感じます。それも極端な暖冬になるかもしれない、、、という内容でしたが、暖冬だけど大雪が心配とか。
西高東低の冬型の天気図が続かず、湿った空気が入りこんで大雪になるのかもしれません。
昔、3月21日の春分の日に東京に大雪が降ったことがあり、私は親類の結婚式で市ヶ谷に向かいましたが、交通機関のほとんどがストップ。
春の温かな日に結婚式を考えて選んだのでしょうに、気の毒なことになったのですが、来年も3月の大雪には注意が必要かも。
それでも二人の結婚生活はその後も幸福で、雪がお清めになったのかもしれません。
私には超能力的なるものはありませんが、結婚式に出席すると、その二人がその後どうなるのかは、実はわかることが多かったです。
それは私の直観ではなく、注意してさえいれば、必ず誰でもわかる予兆として、何かが表現されるものだからです。
例えば、マリーアントワネットの結婚の署名には、王妃が署名する際にインクをこぼしたあとがはっきりと残されています。
長旅を終えてフランスにやってきた翌日の結婚式は疲れもあったでしょうが、インクの固まりでサインが固まってしまった、、、何となく不吉です。
マリーアントワネットの結婚は政略結婚でしたし、実際に結婚生活に満足した面は少なかったと歴史学者は述べています。
結婚という門出はスタートを意味する占星術的に言えば、アングルですので、出発に際したサインが大体は何かで出てくるのです。
知人の結婚式の式場に入ったとき、新郎新婦の席がはるかに遠くに見えて、その間にモヤがかかって見えたことがありました。
直観的にこれはダメだな、、、と。やはりそうでした。
まあ、三組に一組は離婚するご時世ですので、直観も何もあったものではないのですが、サインは必ず出ています。
そこでなのですが、自身の重大なイベントなどで、いやな感じの出来事が起こる、、、こんなことが起こるとは、きっとうまくいかないのでは、、、の不安が。
こうしたケースにどう対処するかで、運命は分かれます。主に次の三つの態度が選択できると思います。
1 いやなことを無視する。気にしないそぶりを通す。
2 気になりながらも、いやな気分になりながらも、さらに冷静に、慎重にすすめる。
3 不平や不満を口に出す。人のせいにしてしまう。
この中でどれがもっとも運勢的によいかについては、私は答えがあると思います。もっとも良いのは、2だと思うのです。
1もよさそうに思えますが、現実の不安を隠す点、むしろ恐怖を本当は増大させています。大きな恐怖に直面できない、本当は勇気が無い人がとる態度でもあるのです。
3は、不安に際し、すぐに不平や不満が出る人は、実力がないのです。日頃の努力が足りていれば、こうした態度にはなりません。調子よく出世した人はこうなった場合に自滅します。
2の態度をとる人が多いと思いますが、それが正解なのです。2の良いところは、不安を認め、慎重に注意深くやるものの、運命をどこか天に任せている点が幸運を招くのでしょう。
人がやるべきことは人がやり、天に任せるべきところは天に任せる、、、、これで行く以外にないと思います。
マリーアントワネットはまだ13歳程だったのでしょうか、、、インクをこぼしても、どう対処していいかきっとわからなかったのでしょう。
みなさんが今後、何か重大なイベントなどの場面で、不吉なことに出会ったとしても、2の態度で通してください。必ず、良い芽が出てきてくれます。
失敗や不運に際して、人のせいにしたり、何かを責めたりすると、最悪の結果を招くので、私たちには注意がいるのです。
責めたり怒れば、その時点で運命が決定されてしまうからです。どんなに不利なことが起きても、決して人を責めず、やるべきことを不安なままでもやる、、その自然な態度から、幸運の芽が出始めるのです。
イエスが十字架にかけられた際にも、同様の話しがあるのです。
イエスがゴルゴダの丘で十字架にかけられた際に、両隣に罪人がやはり十字架にかけられました。
そのうちの一人は、イエスをののしり、人を助けても自分や俺たちを助けられないのかよ、、、というような嘲笑をイエスに浴びせました。
しかし、もう一人の罪人は、イエスをかばって次のように言ったのです。「お前は同じ刑を受けていながら神を恐れないのか、、俺たちは悪いことをしたのだから、こうなるのは当然だが、この方は何ひとつ悪いことをしてないのだ」と。
そして続けて「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」
するとイエスはおこたえになるのです。「今宵、あなたは私と共にパラダイスにいるであろう」
この話しの何がすごいかというと、とにかくイエスのあまりのやさしさです。本当のやさしさです。
イエスのこの一言で、苦難の十字架は罪人にとって、甘美な十字架にすら変わっていったのです。
一人の罪人は私を救えないのか、、、、と嘲笑の言葉をイエスに投げかけ、救われない運命を自ら招いている。
もう一人の罪人はイエスをかばい、ただ一言、もしよければ、思い出してください、、、といっただけなのに、パラダイスの一等の指定席を得たわけです。
しかし、かみしめてみたいのは、やはりイエスの言葉です。
十字架上の最大の苦しみの中で、二人が交わす言葉。
「主よ、頭の片隅でもよいので、私を思い出してください」
「あなたはきょう、私と共にパラダイスにいるであろう」
こういう素晴らしい会話を見るにつけ、困難のない人生や苦しみのない人生に、意味などないという気になってしまいます。
それは、本当の言葉、本当の会話の機会が与えられることがないからです。