153匹の魚 つづき
昨日の聖書の話しのつづきです。ただ時間がなくて、時間がきたら中断しますが、またそのつづき、、、を書きますので、その場合はご了承ください。
何だか大したことしてないのに、非常に忙しくて困ったものです。時間管理ややり方にきっと問題があるんだと思います。
もう少し意識的に行動しなくちゃダメなんでしょうね。人生も意識的に生きた人と、ただ漠然と生きた人生とでは、大きな違いが出るもの。
何がいいとは言えませんが、生まれてきた以上、何等かの役割というか個性があるはずですので、それを表明し、自分らしく生きることを決断することは大事だと思います。
さて、153匹の魚に込められた暗喩は、これまでにも色々な人が色々な形で述べています。
そこに共通するものは、驚きのメッセージです。暗喩にしたことで、さらに真実性が増して来ます。嘘は大体あからさまであり、真実は隠された形を取ることが多いからです。
153の数の上での性格ですが、これは、1から17までをすべて足した数になります。
三角数の17番目の数です。数霊術やひふみでも、またスエイデンボルグも言ってますが、高度な霊界の言葉はほとんどが数字だ、、、ということですが、数によって色々なことが原初的で根源性を失うことなく表現できるのです。
そのため、高度の霊界に於いて話す言葉は数字になる、、、というのはうなづけます。
1から17までの数を足したものが153ですが、17という数に込められたものがあります。
それは、7プラス10という構造です。
また、1プラス7=8 という概念も含んでいます。
どれも、実は救いと関係する数なのです。
7という数には、イエスとつながる人たち、、、の意味があります。
救済のイメージは常に7から出てきます。神は何度人を許すのか、、、、7の7倍、もしくは、7の70倍許す、、、と聖書に示されています。
聖書の神は怖い神の印象と、許しの神の印象の両面があります。それは人為的操作であったか、もしくは神々の戦いの結果であったか、それはわかりませんが、許しの神と怖い神の両面の姿が見て取れるのです。
しかし、新約聖書というイエスの時代においては、神は常に救いの神としてあらわされます。
救いというのは、いづれ救われる、、、という内容ではなく、すでに救われている表明をイエスは語っているのです。
だから、その内容を福音といいます。すでにイエスが十字架に付けられて、人々の罪を背負ったモチーフにより、人は救われている、、、というのが本当のキリスト教の姿でなくてはおかしいのです。
しかし、それでは教会権威化には都合が悪い面があったと思いますので、神と人とは直接につながることはできない、、、、だから教会が介在する、、、という形で教会が勢力を持つ時代が続きました。
しかし、イエスはそうは言ってない。私の名の元に複数の人が集まる時、私はそこにいる、、、という。教会の概念がイエスが語るものと、キリスト教会が語るものとの間には、微妙な差異があるように感じます。
あくまで私の個人の意見ですが、私はイエスの言葉に忠実でありたいと思います。
とはいえ、聖書編纂時には、昨日も言いましたように、色々な力や勢力が加わり、信徒らの思いが直接つたわりにくい面もあったように思うのです。
ヨハネ伝の最終章に置いて出てくる153という数を暗喩として使わざるをえない状況があったのでしょう。
これは、教会権威とは別の、直接イエスにつながる人の数を暗示した数なのです。
すべての3で割り切れる数は、それがたとえ数億桁であろうと、数兆桁であろうと、その数をすべて三条して和していくと、恐ろしいことに、すべての3で割り切れる数は153に行き着き、以降、一切変化しません。
3で割り切れる数の終着点はたったひとつ、153なのです。
3で割り切れる数とは、あらゆる数の三分の一になります。これがイエスとつながる人の数を暗示しています。
復活したイエスはペテロにあそこらへんに網を投げてみろ、、、と指示し、その結果、魚が網にあふれ、その数が153匹。
要するに私の網に捉えられる人間は三分の一、、、ということを言っていることになります。
イエスは以前にも、漁師に対して、私にしたがって来なさい、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう、、、と語ります。
まさに、ヨハネの最終章で語られた内容は、さらにそれを推し進めた暗喩であり、イエスが救う人数に関係しているのです。
聴く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの一貫した態度は、もともとが、自分の言葉を受け止められる素養が持つ者と、ないものとに、けっこう厳密に分けた印象があります。
では、イエスは縁のある者しかお救いにならないのでしょうか。そうではないのです。
それが153のもう一つの意味であり、10プラス7なのです。
7というイエスの言葉、、、、すなわち福音を受け入れる人数が7 さらに何もわからない人の群れが10
結局はイエスはすべての人を救う、、、、というか、すでに救っている、、、、という内容になっている。
すでに救われているのですが、そのことを知らず、自分を自分で守るしかないという意識の前で、救われていることに気づかない人がいることも事実なのです。
不安と恐怖をベースにするということは、福音を知らないということになります。そして、そうした勢力が時代を支配してきた以上、イエスの存在や聖書の二重性の中で、私たちはこの二千年を生きてこざるを得なかったのです。
事実はすでに救われている、、、しかし時代支配の原理は救われていない形で進みます。
だから原発が必要となるし、金がすべてのような宗教的意識が生じるし、悪が存在するのです。
しかし、悪も福音の時代の前で、悪そのものの姿を見せることはできません。なので、人々を洗脳し、人々の自主性を頼りに私たちを地獄的なものへ追い込むしか方法はありません。
要するに、時代はすでに福音なのですが、閉じ込める意識そのものによって、私たちは自縛により、不自由になっているというのが、正しい時代認識なのです。
聞く耳のある者は聞くがよい、、、というイエスの言葉の中に、人は見ているものの違いがあることを実感せざるを得ません。
私の言葉が心に入る者が、三分の一、、、とイエスは語っているのですが、それでも私はすべての民を救う、、、という最終のイエスの言葉を暗喩にして表した数が153だったのです。
153の数の中には、イエスの本当に深い愛が込められたいることになります。
私も救われている、、、あなたも救われている、、なのにそう思えず、悪の仕組みの中で呻吟してしまう、、、、
聞く耳をもって、新しいイノチに入る生き方が今求められています。
聞く耳、、、太古から鳴り響く命の音、、、それと一体となるために、私はMIチューナーを開発したわけであり、また、母音トーニングを重要なものとして、行っているのです。
そして聖書の中にもそのことは語らているのです。144000人の人のトーニングがこだますとき、人類も地球も変化し、本当の福音の時代が訪れると。
それが水瓶座時代の到来なのですが、これも先取りされて、違った印象操作がなされてきた言葉です。
本物を乗っ取る、、、そして本物から命を捨てさせ、形骸化された者で人を集めて迷妄を深めさせる、、、このうお座時代特有のやり方に、終止符が打たれようとしています。