立春大吉
きょうが節分、明日は立春。いよいよ春です。
年賀状のお返事が毎年遅れて、、、苦し紛れに立春に出すのが恒例でしたが、昨年と今年は、まだそれも追いつかない、、、
常識の儀礼がきちんとできないみずがめ座は、よくないですね。ごめんなさい。年賀状どころか、お歳暮のお礼及び、返答のご挨拶さえまだだということに気づき、愕然。
立春が間に合わなかったので、春分までにはやらなくては。
しかし本当に陽が伸びてきました。明るい春を思わせる日もあります。
立春の明日は、お祝いもかねて、魔女の薬局セミナー①として「自分の香水をつくる」を開催。
参加者は少ないのですが、関係者が非常に多く、けっこうにぎやかになりそうです。フレグランスは何でもよければ簡単に作れるのですが、作る際の意識、センスがやはり命となります。
香りも時間によって変わりますので、イメージをしっかりもっていないと、香りに遊ばれてしまうことになります。
香りのイメージというと何となく心もとない気がするかもしれませんが、そういうことはないのです。まったく逆で、香りは一度印象付けらたり、奥の方に届くと、それは一生忘れることができない記憶になります。
潮の香り、、、雪の匂い、、、台風の香り、、山の匂いも山によって違い、覚えている人もいるのです。
それらの忘れがたい香りは、再びその香りに触れた時、何十年もの月日を飛び越えて私たちの前に現れる、、、過ぎ去った記憶がたった今、そこにあるかのように再現されてくる、、、
プルーストの名著、失われた時を求めて、、、は、紅茶とお菓子の香りに触れて、時が舞い戻ってくるところから始まりますが、同様のことは誰もが必ず、体験しています。
香りというあいまいなものですが、それは一度印象付けられたなら、生涯忘れることなく残され、再び出合うその香りの中で、過去が舞い戻ってやってくるのです。
何というロマン、、、香りのない人生は考えられません。
私は嘘の香りが嫌いで、デパートのようなところで水蒸気にアロマを入れて発散させている場面に遭遇すると、喘息に似た症状が出てくる。
一度、結婚式の一番前の席で、新郎新婦のテーブルに置かれたアロマの香りにやられ、どうにもならない咳が出て、本当に困ったことがある。
と言って式の雰囲気は絶対に壊せない、、、そんなプレッシャーもあって、ナプキンで抑え、ハンカチで抑え、隣の人の使ってないナプキンまで拝借して、死にもの狂いで咳と格闘。
生涯に何度もないイベントなのだから、お願いだからせめて本物のアロマにしてほしいと、申し訳なさもあって、今思います。
明日つくる香水はもちろん、本物の精油がベースです。ローズオットー、ジャスミン、ネロリがそろった本格的で豪華なもの。
半分は精油を使いますから、ローズオットーやジャスミンをふんだんに使われたら、赤字、、、まあ、それは覚悟の上ですが、、、香水瓶を小さいのにすればいいか。
香水瓶も取り揃えてあります。立春にどんな思いの表現がなされるか楽しみです。
イメージを持ち、そのイメージに近いものを調合して表現、、、時間をあけて二回目に香りのチェック、、、さらに数週間後にどう変化するかを楽しくイメージできたら、もう自分の香水になるでしょう。
ネーミングができたら、世界にたった一つしかない自分の香水になります。処方箋を大事にし、重要なイベントの際にその香りをつてに、幸運を呼び込めばよいのです。
一生忘れない香り、、、その実態は一体どちらにあるのでしょうか。香水にあるのか、、イメージの中にあるのか、、、
一生忘れないということは、イメージの中に実態があるからなのです。本物は形や結果ではなく、無の中にこそ存在することの証明になっている。
香りがもっともそれを端的に表してくれることが多いのです。
水泳と自転車は、一度覚えたら、一生忘れない例外的なスポーツです。他のスポーツは大体はダメになったりかなり下手になります。
スキーなど十年もやってないと、まったく問題にならないほど下手になりますね。
水泳と自転車はイメージの中に入り込む要素が強いのかもしれません。
私たちは、結果重視の考え方をしますが、それは本当は損な考え方です。結果などに本当は意味はないのです。
結果、具体的な事柄、事物には、何の力もない、、、というのが、フリーエネルギー論の根本の原理です。
本当の力は無にしかありません。無からやってくるエネルギーによって、実は私たちは生きているのです。そのことがわからないと、幸運もこの世的な実相も十分に理解できなくなるでしょう。
形あるものに力があると思っているのです。だから、地球は不幸なのです。社会も容易に人を不幸にするし、人生も容易に不幸に落とし込まれる。
すでにある物などに力などないのです。皆、病気になった、、、という結果に執着します。そのため、どうにかしなくちゃ、、、早く治さなくちゃ、、、と慌て、大変なことになります。
しかし、病気は結果ですから、本当はそこには力などないのです。もう終えたのです。その結果が病気です。
なので、治す必要も本当はない、、、という考えが正しいのです。順序として。結果なのでもう怖いものではない。
病気をもたらす原因の時代の方に無理があり、怖いのです。結果はもう終えたもの。なので、もうどうでもいいのです。
というと、では治さなくていいのか、、、となりますが、そうです。基本、病気はほうっておけばいいのです。そして病気が結果となったこれまでの生き方に意識を向け、そうではない生き方をすればいいだけ。
病気になった以上、もう結果なのだから終えている。終えているものをどうにかしようとするから、壊してしまう。病気になったこれまでと違った生き方をすればいいだけの話しなのです。
すると、新たな結果がそのうち出てくるので、これまでの病気という結果と相いれないものとなり、原因の方が強いですから、病気は治ったようになるわけです。
病気という結果に煩わされ、それをかまい、それに執着すれば、さらに悪い病状となるだけの話し。
病気は一例ですが、結果を怖がる必要はエネルギー論からいうと漫画になります。貧乏になったのは、もう貧乏を終えていいという印なのです。
病気になるということは、もう病気を終えていいということであり、人気がない人だということは、もう人気がない状態を終えていい、、ということでしかありません。絶対に私は病気を治す、、、なんて、間違った考えなのです。もう終えているのですから。他のことやればいいだけです。(恋が最高でしょうけど、、、)
結果にこだわらないこと。冬至が終えて明日立春を迎えるように、時も状況も進みます。時を止めてああだこうだと騒ぎ立てる人間の悪い癖を、今、変えた方がいいのです。
終えたものは終えたのですから、ご苦労様で送ってあげる。形のない永遠の命を持っている私たちが、バカなことを数千年もやってきたのですよ。自分が肉体だと思うから間違えるのです。肉体も結果でしかありません。