祭り

日本各地で繰り広げられる祭り。形骸化してしまった祭りが多いかもしれないが、中にはいまだに血を沸かせ、魂をいきづかせる祭りもあると思う。私が暮す町にも古くからの祭りがあり、伝統を感じさせる素晴らしい祭りだ。各地域から飾りつけした山車が集まり、その勇壮さを競う。山車には子供たちのおはやし隊がこれまた素晴らしい音を奏でる。子供たちが心の底から太鼓やおはやしを奏でていることが伝わる。子供時代にこうした祭りでの重要な役割を果たし、子供ながらにも充足感を得ることには、非常に重大な意味がある。祭りの音楽とは、神とまつらうことでもあるが、その役を地域を代表してこなし、祭りと一体となり、三昧の境地に達することができたなら、その子の魂にそれは永遠に刻まれる。それは自分はなぜ、生まれ、ここで育ち、なぜ生きるのか、、、という答えともなるのだ。哲学の命題は、人はなぜ生まれどこへ行くのか、、、、ということだが、実はその問題意識は自己喪失感から出発する問題でもある。もともと自己喪失という状況がないとしたら、人はなぜ、、という疑問は生じてこない。地域に密着した文化的感動、三昧を子供時代に体験したならば、人はなぜ生きるか、、、という極めて近代的な哲学の問題はすでにクリアできている。本当に祭りとは凄いものなのだ。今の親は、祭りに行くぐらいなら勉強しなさい、、、などと考える人もいるのかもしれないが、大間違いである。子供時代に一度でも祭りの太鼓、笛、おはやしなどに夢中になり、そして本番を迎え、人々やそこを守る神と一体となったなら、人生の根本的な問題はすでにクリアできているのだ。それだけの力がある。考えてみれば白人文明はそうした力を封印し、さらに野蛮と見下し、権威構造におけるパワーのみを信奉してここまでやってきた。その業はまことに深いといわざるを得ない。本当に野蛮だったのはどちらであるかはいずれ明白になってくる。もちろん人種を問わない新たな方向性が問われているのだが、和を抜きにそれはありえない。その際、パワー志向のでしゃばりタイプは、ちょっとひっこんでいてもらいたい、、というムードがいずれ出てくると思う。声の大きな人は和はつくれない。祭りの話からそれてしまったが、今、子供たちの心がすさんでいる。各地の祭りを本格的に、神事として復活させ、子供たちに重大な役を与え、大人たちと一体となり、地域の神の前で三昧の境地をもたらす祭りの復活。それができれば、文部省や教育委員会が変なことをせずに子供らを襲う現代的な問題の多くに解決が得られる。日本はそこからやり直すのが一番早いと思う。
 私は文化的な活動が昔から好きだったが、子供らのおはやし三昧を見て、自分の中の深いところにあるコンプレックスがわかった。私は中学時代からキリスト教文化の中で育ち、今でも賛美歌を歌うことは本当に好きであり、それは間違いないのだが、子供時代に地域と一体となった祭りや神事に本気でかかわったことはなかった。まして三昧になったこともない。そうした無量感に無意味の苦しみが入り込む。子供時代に神事において絶対肯定された経験がないことが私のコンプレックスの背景だったのだ。ひるがえって今の子供には何があるのか。そんなもの、何もないし、誰もわかってくれない。合理主義、計算主義、金銭主義、それで子供が本当に育つと思うほど人間のレベルが下がってしまった。どこかに幸せがある、、、何かに夢中になりたい、、、、そう思って人生をさまよっている人は、きっと子供時代に本当の祭りを知らず、それに三昧となったことがないのだと思う。