きれいな初冬
とても紅葉がきれいです。例年にない美しさ。昨晩などは雨上がりのせいか、色、香り、散り行く風情と最高でした。こんなにきれいな紅葉はめったに見られない。思わず車を停めて見入ってしまって思ったのは、これをお金に換算したら、いったいいくらくらいの価値があるのだろうと考えた。価値は相対的なものだから、一円の価値も感じない人もいる一方で、計り知れない金額と交換してもよい、と考える人も出てくるだろう。要するに、自然の芸術なのだから、人間がつくる芸術品よりも高くて当然、との考えがあってもよい。美しい紅葉の思い出があるお年寄りで、もうじき息を引き取るような場合なら、何億出したって、もう一度、あの時のような紅葉が見たい、、とそう思うかもしれない。昔、南の島に雪が降る、、、という舞台劇があった。戦時中の話で南方の戦線で今にも息を引き取ろうとしている雪国生まれの兵隊が、雪が見たい、、、と言う。戦友達は不憫に思い、白い紙を細かく切って、木々の上から雪を降らせるという話だ。雪国生まれの兵隊をそれを見ながら息を引き取る。兵隊の目には本当の雪が移り、魂は雪と共に天上へ帰っていく。それは友情の話でも、戦いが悪いというイデオロギーの話でもなく、人間が持ちえる本当の価値が何であるかを教えているように私には思えた。心して紅葉を見ることができなたなら、それは何億以上の価値がある、自然の芸術であり、海の音も、風の音も、暁の雲も、けぶる山々も、清流の音も、潮の香りも、、すべてが最大の価値として私達は心のどこかで捕らえているのだ。そう思うと、私達は大変な価値あるものに取り囲まれている。金持ちであろうとなかろうと、同じように大変な価値の中で暮らしている。豊かさとは、それに気付けるかどうかの違いでしかないことがわかる。さらに言えば、今、無意識にすっている一回一回の呼吸。それがなければ私達は生きていけない。それがなくなったら、金持ちは一呼吸一億円だって出すだろう。一回の呼吸にはそれだけの価値がある。呼吸ができるとは、生かしてもらっていること。生きることが許されているということ。勝手に生きているのではない。生きることを許されて私たちは今、ここにいるのだ。それが原点。しかし悲しいことに、それに気付けるのはすべてを失ったときや失意のときである。だからイエスは言う。悲しんでいるものは幸いである。それは比喩でも何でもなく、事実なのだろう。一度何かを捨てて、はじめてつかめる大きなものによって私達は生かされている。この世はやはり愛によって支えられているのだ。だから、愛によらない動きは常に何かをかき回さなくてはいられないということになる。騒々しいものの中に愛はない。世の中がどんなに騒々しくなっても、静かに変わらぬものを自分の中に持てるかどうか。そのことがとても大切になってくる。