皮肉な競馬結果
フジテレビでやっている私の競馬占いが大当たりしているとか。自分でやっておいてとか、ということもないが、なんだか仕事になった途端、このところ競馬はお休み中。競馬予想は仕事1本というわけで、これが当たっていて、御礼のメールが局にかなり来ているらしい。純粋に占いでの予想なのだから、かえって当たるのだろうね。毎週土曜日の夜中にやっているフジテレビの競馬予想番組です。よかったら見てください。ただ当たりもあるけどはずれもあるのが予想なので、あまり鵜呑みにはしないでください。今週はいて座がナンバー1と占ったのですが、狙いは8-12と6-14のワイド。先週は10,11,12,14以外買うな、という乱暴な予想だったのだけど、物凄い馬券のヒントになったり、ワイドで2万円以上が当たったりと、成果はあったようです。今週はどうだろうか。9番も気になる週です。しかし今週も私は馬券は買えない。まじめに仕事です。ヒルズでのドラゴンヘッドと金星の合につくる星のローズオイルの調合が待っている。競馬どころではありません。しかしそういうときに限ってあたることの多いのが競馬。昔、その馬が出てきたら何が何でも全力で買っていたことがある。悩み多き青年時代だったが、遊走腎という特殊体質のため、病気ではないのに手術することになった。わすれもしない6月2日。その日に限って私の狙い続け、買い続けていた馬が出走して見事2着で大穴を開けたのだ。馬券が買えず、あとで本当に悔しい思いをしたことがある。というか、競馬の思い出とは大体そんなことが多いもの。本当に悔しい思い出だらけである。しかし考えようで、過去になってしまえば、それが大も儲けしたことでも大損したことでも、どちらも同じ思い出の価値を残す。悪い思いでも本当は楽しいものなのだ。それは生きていることも同じ。良いことの連続が幸福なのではない。そんなことは大体ありえない。山あり谷あり、たまに嬉しいことあり、、、それを懐かしく思い出すとき、生きることのすべてが良いものにおもえてくる。モーツアルトは自分が死ぬことを予期して語ったという。私は毒を盛られている、もうすぐ死ぬだろうが、ああ、なんて人生は素晴らしかっただろう、、と。映画の中でのせりふなので、史実にもとずいたものかは分からないが、いかにもみずがめ座のモーツアルトらしく感じる。私もみずがめ座だからかどうかはわからないが、苦しみのどん底でいつも人生は素晴らしいと思った。最悪のときに人生を肯定する感性がみずがめ座にあるのだろうか。いや、水瓶座うんぬんではなくて、それが真実なのだろう。殉教者の中には本当に歓喜を感じつつ死んでいった人も多かったし、あのフセインでさえ、最後は看守たちにお礼を言ってから絞首刑に望んだという。盗撮して暴言を浴びせた人よりもやはり立派に思えてしまう。死に望んだときの覚悟をもっとも大切なこととしたのが武士道だ。またユングは人生を一日になぞらった。人生の前半は午前中。午後は人生の後半生となる。午前中の太陽はすべてを照らし、暖かさを与えるが、午後の太陽は峠を過ぎるとどんなに照らしても温まらずに熱を奪っていく。ユングは人生の前半と後半とではその生き方に違いがあるのが当然であり、自然なことであると考えた。もっと言えば、後半生は死ぬために与えられた時間と言えなくもない。となると武士道と同じ。最近のお年寄りにはしかしこうした考えは分からない。死に欲が凄い。よたよたのおじいさん、おばあさんが二人仲良く、本屋で株式情報を目を皿のようにして読み、話し合っているのを見て恐くなったことがある。まあ、自分たちではなく、子供や孫に残すつもりで真剣なのかもしれないが。人間の死に欲は凄い。武士道どころの話ではない。自分が死なないと思っているのが現代のご老人のひとつの姿でもある。これはこれで元気でいいのだろうが、だから政治家などもどこまでも自分の損得のみしか考えられなくなっているのかもしれない。次の視点にたって考えない。思いもしない。やはり老害の国になってる面は大きい。老人に楽しみをあたえることで、かえって次世代を育てようとする気持ちが育つのではないだろうか。不安を与えたほうが経済活動にとって都合がいいので、こうなってしまった。しかしこれからは老人に喜びを与える時代にならなくてはダメだ。それが会って初めて、この素晴らしい地球に、人間に、次世代に、私は何を残そうか、、と考えるようになる。老人に与える喜びで最大のものは、その人がやってきた人生の絶対肯定の気持ちである。老人が一人死ぬということは、大きな図書館がひとつ消えることを意味する。凄い情報、凄い知識、凄い体験、、、これをまず価値あるものと認識する必要。若いというのは、この点ではあまり価値がないのに、若い価値が大きくなりすぎるとどうしても深い文化は育たない。あと老人に必要なのはセクシャリティの充足だと思う。何もエッチをしろということではなく、セクシャリティの成熟した遊びを体験させてあげたい。自分は男である、自分は女である、、という確信が老人になってさらに磨かれたとしたら、どんなに凄い魅力が出てくるだろうか、、そう思うだけでわくわくするものがある。私はその昔、凄いお金持ちの外国人がたくさんの奥さんをつれて新幹線のグリーン車に乗り込んできたのを見て、その老人の顔に若者のような純粋なセクシャリティを感じたことがある。アラブのお金持ちか何かだったと思うが、日本ではあまり見かけない。性的成熟を投げ出さず、男として、女としての観点を失わずに年を重ねていくと、やがて魅力的な人間になると思う。老人になるということはセクシャリティを失うのではなくて、本当は成熟していく過程なのだ。女であること、男であることを決して捨てない、心の面でも、行動の面でも、そして常の意識においても。ウーマンリブのいう、男女の意識は社会的につくられる、、、というが、もちろんそういうものもあるが、本質的な最初からあるものもある。そちらが多きい。それは差別ではなく、個の人間の最終的な成熟に大きく関係してくるものだと私はおもう。男性が老人になると女性的になるケースが多いが、私はそれは成熟と関係するからだと思う。最後は女性的なるものに成熟の鍵があると考えるほうが自然だ。また女性は女性として成熟する以外に、男性的使命を深く顔にとどめるようになっていく。老後の成熟ほど面白いものはなく、人生は最後の最後にもっとも素晴らしいテーマとプレゼントを与えてくれている。