無から有が生じ無は無限を包含する

私は人の成功物語を聞くのが好きです。そして成功者の話しに共通していることは、すべて同じ。例外はほとんどないと言ってもいいでしょう。

それは、その人が成功していくきっかけの、そのスタートは必ず、無であることです。

二代目社長で会社を大きくしたような場合でも、一代目からの引継ぎがうまくなく、むしろマイナス状態からのスタートになったり、周囲がまったくついてきてくれないなど、二代目の有利さよりも二代目のマイナスが目立ちます。

要するにマイナス、もしくは無、ゼロの状態を体験し、そこをスタートにして成功していくパターンが共通しているのです。

これはエネルギー的には実は当然のことで、ゼロにしかエネルギーの入り口がないからです。

人はすでにある物を欲しがり、すでにある物に力があると誤解します。しかし、すでにある物は何等かの結果としてそこに存在しているだけで、それ自体は過去の意識の産物としてそこにあるだけです。

そんなこと言ったって、大きな財産があればいくらだって使えるに決まっているじゃない、、、との反論が出ると思いますが、その大きな財産を作ったところの意識がそこに注がれなくなれば、財産などいくらあってもあっという間に失います。

すべてはエネルギーの結果として存在するからです。老後を生き抜くには6000万円必要だとか、いや3000万円でどうにかなとか、人は不安になって言いますが、まったく意味ないのです。

一円もなくても楽しい老後を過ごす人もいるでしょうし、何億円あっても貧しい老後に至る人もいる、というのが結論だと思います。

いくら持っていても、そこに注がれるエネルギーがなくなれば、物は必ず崩壊現象を開始します。

これだけ貯めたからこれで安心、、、と思ったら、もうそこにはこれまでのエネルギーが注がれなくなりますから、いくら貯めても、実は安心ということにはならないのです。

一定の意識状態を保たない限り、そこに現れた現実を長引かせることはできません。

これで安心、、、という意識は終わりの意識ですから、もっている物は、必ず崩壊化を始めます。

人は安心するために生まれて来たのではないのです。安心とは幻想にすぎませんん。

せめて用意しておく、、、程度に貯金などは考えたらいいと思います。そうすれば、きっと活かせるときがあることでしょう。そして確かに貯金によって助けられることがあると思います。

貯金があるから安心、、、はあまりに稚拙であり、自身を金や物と同等におく意識なので、必ず崩壊するのです。

安心を求めても安心な状態は訪れません。安心を求めるのは、安心でない状況を想定した自身の不安定さを助長するためです。

成功者の話しに戻しますが、成功者は行き詰まり、すべてを失い、無となった時点で、無の状態で意識を働かせたのです。

期待も恐れもない素直な無の状態の中で、そうだ、、、との思いからスタートしてものは、必ず成功するのです。

エネルギーは無からしか訪れないためです。すでにある物を羨んでいるうちは、自分も物質ということなのです。

人は人の持つものを羨むことはあっても、人の持つ意識を羨むことはありません。

表面的な人の成功を羨み、人の財産を羨み、人の美貌を羨みつつ、多くの人が自分の人生を送っています。

しかしそれがどんなにか危険であるかを、多くの人は気づかないのです。

人を羨めば、目に見える形だけが自分となり、目に見える形だけの人生を歩むことになります。

目に見えるものは、すでに結果物ですから、そこにはエネルギーはありません。私たちは人を羨むことで、自身の無の原点を忘れるのです。

そうなれば、必ず崩壊化が進みます。長生きしている人に、人のことばかり羨んでいる人はいません。

皆、自身の人生に、それなりに満足している人が長生きします。

それは無とその人がどこかでつながっているからで、物やステータスとつながることで長生きするわけではないのです。

昔、台風が青森県を襲い、収穫直前のりんごがすべて落ちてしまったことがありました。

どの農家もすべて収穫が全滅。それを見たりんご畑の老婆が言った言葉が忘れられません。

「どの家のもみんな落っこちだ、、恨みっこなしだ」と。

人生もまったく同じだと思うのです。誰でもこの世に生まれて、必ず死んでいきます。恨みっこなしなのです。

そして誰もが無となった際に、そこはエネルギーの入り口となっているのです。

お金を失ったとき、悲しみのどん底にいて将来がないと思われるとき、名声を失い悲嘆にくれる時、誰も愛してくれないで死ぬほどつらいと感じるとき、あきらめきって何もない自分に気づくとき、、、、無は様々です。

その無をあくまで物理的な無としてしかとらえなければ、自身も物理的な運命から逃れられず、崩壊現象が加速します。

自分が物だからです。物には物としての運命が襲い掛かります。物を持続存続させるエネルギーが無くなれば、それは崩壊していきます。

無からしかエネルギーは訪れないのですが、その無を物理的な無として捉えるだけか、物理的な無の中に無限を肯定できるか、、、そこに人生の分かれ道があります。

物理現象は正直ですから、物理的に無の状態をつくれば、必ずエネルギーが注がれます。なので、本当は金を失くすなどの物理的な無ですら、凄いチャンスなのですが、物に凝り固まった意識がそれを認めないので、物の運命と共に自分も終わってしまうのです。

物理的な無とは、このように病気であり、貧乏であり、失意であり、色々です。しかし、そこに息づく無限に人が気づくことで、人は生まれ変われるということなのです。

この世に誰も得する人などいないのです。この世に損する人もいないのです。

無がエネルギーの入り口です。持っているものは関係ないのです。

これは詭弁で言っているのではなく、光と光の無をつくればエネルギーが得られ、音と音の無をつくれば高度のエネルギーが入って喜びとなり、磁気と磁気のゼロ磁場をつくれば、そこにエネルギーが入ることを、散々確信した上で、無がエネルギーの入り口であると言っているのです。

昨日ご紹介したゼロポイント神舞踏も、体のあらゆる筋肉を拮抗させることで、体の各所にゼロポイントを作れば、そこにエネルギーが入る原理なのです。

それは同時に美しく、神々の踊りを連想させます。ヨガはその動きを固定化させたものなのかもしれませんね。ただ筋肉の力の拮抗点を超えたら、組織が痛むし、エネルギーも入らないのです。

拮抗させた無にエネルギーが入ることがわかれば、老人ですら若返る可能性が出てくるはずです。無を知らないから、人は恐れ、失意し、怒り、悲しむのです。

無の愛を知ることで、人は生まれ変わらなくてはならないのです。

お知らせ
今、尾山台のSHOPマドモアゼル・愛には、先週、台風の日の街のイベントで駄菓子屋さんをやりましたが、その際に売れ残った駄菓子がまだ残っています。

今、来店された方には駄菓子を差し上げますので、楽しみにいらしてください。

セミナーの詳細は
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