崩壊と吸引はすべての行為に及ぶ
吸引サイクルと崩壊サイクルとは飯島先生から学んだものですが、宇宙のすべてはこの原理によっています。
崩壊のサイクルから始まったものは、力を失い、老化し、命を縮め、最後は死に至ります。
その一方で吸引サイクルかは始まったものは、力を得、若さを保ち、命を長らえ、厳密にいえば死ぬことさえなくなります。
どの現象にもこうしたサイクルがあり、あらゆるものの基本は吸引サイクルですが、間違った意識圧がかかることで、吸引サイクルがひっくり返って、崩壊サイクルになることが多いわけです。
どのサイクルも吸引、崩壊、吸引、崩壊、、という呼吸のようなリズムを刻みますが、最初がどちらかによって、人も物事も生の方向か、もしくは死の方向へと向かうことになるわけです。
動物の意識は自然に近いものなので、基本的に歳をとらないのだと思います。人間は動物に比べてよく考え、常識などが浸透するため、自然でない意識圧を持つことが多くなり、崩壊サイクルに変えてしまうものが多いのです。
よく、物事がうまく運ばずに運気の停滞を招いたり、運気が悪くなることが人にはあると思います。それは、何か順調だったものが、ある時点から崩壊サイクルに切り替わった結果であるともいえます。
ツキが衰えていく、、、うまくいかなくなる、、、そうしたことは誰にでもあるのですが、そのきっかけとなったものが実はあるはずなのです。
それは意外に小さく見えるものであったりします。ケチな人なら、金銭面で多少得することがあっても、その得した事柄に対して、何らかの負い目などを抱いたような場合、その行為に負の意識圧がかかりますから、これまで順調に行っていたサイクルが、そのことから崩壊サイクルに引っくり返ることがあるのです。
ですので、昔から本当に分かっている人は、常日頃の心構えの大切さを問うたのではないでしょうか。武士道などまさにその典型です。
また、道、といわれるものも、その神髄は、小さな言動や行動が持つサイクルを常に自然体に保つことが目標であると言うとわかりやすくなります。
心しておこなうことの大切さが、崩壊サイクルをもたらさない重要なことなのです。
昨晩、私は過労もあって、このまま食事をしたらかなり悪化するのではないか、、、という思いがありました。
本当なら食べなければよいのですが、食いしん坊な私は、注意深く食べよう、、、と決めて、ゆっくりと、心を騒がしくさせることなく、一口づつ、本能にまかせないで食べたところ、体調はよくなりました。
おいしい、、、とか、もっと食べたいとか、、、欲求のままではなく、ゆっくりいただくという気持ちで食べたらかなり悪かった体調がもどりました。
そしてわかったのが、サイクルが多忙によってどこか崩壊サイクルに切り替わったのを、再び、自然な吸引サイクルにオセロの駒のようにひっくり返したということです。
温泉に行ったり、良い音楽を聴いたり、笑ったり、、、自然な喜びが再び私たちを吸引のサイクルに戻してくれるわけですが、信念が強い人はそうはいきません。
絶対に損したくない、、、という思いが強ければ、損得のみが判断基準になるため、自然でなく、いつか何かで崩壊サイクルに逆転させてしまうことが多くなると思います。
出世病もお金持ち病も権力病も、結局はむしろ損なことなのです。必ずどこかで自分自身に負い目を抱き、サイクルを崩壊に導くことをしてしまうからです。
昔、ホテルニュージャパンというホテルで火災が起き、多くの宿泊客がなくなりました。原因はスプリンクラーがついていなかったからです。
形だけの水が出ないスプリンクラーを付けて、検査を済ましたという嘘のような話しだったと記憶していますが、ホテルニュージャパンの社長は大変なお金持ちでしたが、異様なほどのケチだったのです。
客の安全にかけるお金ももったいないと、見せかけのスプリンクラーを付けたなど、心のどこかに必ず負い目を生じていたはずです。
儲けはしたものの、サイクルは限りなく崩壊方向に導いたはずで、あれだけお金に執着しながら、結局は最後は借金で終えた生涯でした。
このように、吸引と崩壊のサイクルはしょっちゅうが逆転し、オセロのように裏表の姿を見せているのです。しかし、ある観念にしばられたり、一方向の考えしか持たない人は、どうしても崩壊サイクルを強化することになります。
気分転換の重要性、、さらに言えば、一つのどんな小さな事柄にでも、心して行う態度が、いかに重要か。
日本の文化は道という構造をしています。食べることにも道があり、遊びにも道がある。
ことに食べることは、本当は非常に危険な行為だという気がします。人間は2500カロリーを食べても、実際には三万カロリーほどを使っているようですので、食べることと、エネルギー補充は直接的には関係しないのかもしれません。
無からしか本当のエネルギーは来ないわけですが、そのため、食べることは、必要であるかもしれませんが、本当は危険なことなのです。2500カロリーを食べて得るためには、2500カロリー以上を消費していることがもしわかったとしたら、食べることの危険性もうなづけます。
私自身、決して不食ではないし、そんな高度なことはあいにくできないと思いますが、食べることの危険性はよくわかります。
ただおいしい、、、ただうまいと、食欲に任せて食べるとき、私たちは、ついつい、獣に近い不自然なサイクルに逆転させる可能性があるのです。
食べることはとくにそうでしょうし、また、歩くことも、呼吸することも、言動を発することも、、すべてにどちらかのサイクルが存在するのです。
動物は自然ですから、基本吸引サイクルのまま生きていきますので、いつまでも若いわけです。人間も日々の小さな事柄の細部にまで、本当は意識を向け、自身のサイクルの崩壊化を常に見つめる必要があるのだと思います。
となると、効率や合理的という価値がいかに小さく、間違ったものかがわかってきます。道という方向性の前で、効率や合理性というもののインチキが暴露されるはずです。