面白いこと、、つまらないこと
何をやっても面白く感じる人と、つまらなく感じる人がいる。何の違いでしょう、、、
それは外界とその人が打ち解けているかどうかで決まるように思います。
自分の殻に閉じこもる、、、といいますが、オープンでない。私もどちらかというとあまりオープンな方ではないですが、オープンな人は外界と自分が打ち解けているわけで、人気がある。見ていて面白い。
外界と自分が打ち解けているかどうかは、生き方の根幹にかかわる問題だと思います。
人は何かと常にかかわって生きています。物や、自然や、人や、異性や、会社とも、、、
自分と外界の間に壁を置けば、一見安全かもしれませんが、よそよそしさが出てきます。その結果、人は孤独を感じるようになる、、
妻とも夫とも打ち解けずに、一生を暮らす人もおそらくいることでしょう。
その場合、一見、何の問題も生じないかもしれないけど、むなしい、手ごたえがない、生きている気がしない、、ということになっていく。
関心を他のことに向けて、趣味を持つ、遊ぶ、学ぶ、、などをするが、結局は自他の関係はどこにでも、何との間にでも存在するのだから、何をしてもつまらなくなっていく。
フロイトはすべての衝動の原点にはリビドーがあると言いました。
もっと言えば、人はリビドーの衝動から来る行動や思考をするタイプと、それを避けようとするタイプとに分かれるのではないでしょうか。
リビドーが原因である行動や思考は、イノチと直結しているから、見ていて面白いしわかりやすい。
反対にリビドーを隠す言動や思考は、本質的なものがそこに感じられず、見ていてつまらないし、魅力がない。
リビドーから遠ざかれば、イノチから離れるので、生きることの意味づけがあえて必要となり、弁解に終始していく。なのでつまらなくなる。
つまらない人は、同じようにつまらない人をとつるみ、安心しようとする。
日本人の集団の多くのつまらなさの原因がここにある。
色気のない会社、、学校、、組織、、
学生時代の楽しい思い出や、友人との楽しい時代は、リビドーがある程度解放されていたからではないか。
恋の話、、性の話、、それにまつわる危ない感じ、、すべてがイノチの躍動を感じさせる風になっていくので、面白いわけだ。
しかしリビドーを性衝動のみで捉えると誤解があると思う。子供時代の楽しい遊び、、子供時代の無邪気な楽しみ、、、
リビドーの本質は、人が外界と打ち解けているかどうかということになる。
たとえ、老人になろうとも、外界と打ち解け、そこにエネルギーの交流があれば、性ではなくとも、性の構造と同じ体験をしていることになる。
自分の壁を作り、外界を自分を害するものとして受け止めている限り、性もエネルギーも枯渇していくのが人間なのではないだろうか。
本当に飯島先生から教わった、宇宙の原理は偉大だ。ギャップを埋める、、ギャップが埋め合わさる際にエネルギーの吸引が起こる。
吸引作用がイノチそのものであり、その空間に自分があるとき、人は楽しいし、発展するし、面白いのだ。
自分を外界に投げ、外界と打ち解ける、、打ち解ける際には争いもあるかもしれないし、ときには修羅場すら生まれることもあるかもしれない、、、
しかし、相反するもののギャップが埋め合わせることで、イノチは輝き、次の世代をつくり、永遠性が垣間見えてくる、、、幸福とはそうしたことを言うのだと思う。
次の世代とは、子を産むこと意味するだけでなく、すべてのものを生みだす力として言っているのです。
外界と自分との間には、不快なことも、いやなことも、恥ずかしいこともあるが、あらゆる出来事は外界と自分の関係の中から起きてくる。
しかし、一体化がどんな事変をもたらそうとも、外界と自分は一心同体で変化していくと思えば、どんな映画を見るよりも面白い、自身が主人公になっていく。
外界とは、仕事であり、人間関係であり、金であり、教育であり、あらゆることなのですが、それらはすべて、自分と関係するところのいわば性の対象なのです。
関係性のすべてに存在するリビドーを認め、ギャップを埋め合わせる生き方を選択すれば、人生は豊かで楽しくなってゆく。