パニック障害の日  8月29日

ごろ合わせでいろいろな記念日を作るのが流行っている。きょう、8月29日はパニック障害の日だそうである。

そんなことにまで記念日ができるなんて、なんだかお菓子屋さんにきたような、楽しいケーキ屋さんにいるような、不思議な気持ち。

パニックケーキください、、、とつい言いたくなるような、不思議な楽しさ。

実際、パニック障害はそんなものなのかもしれない。そんなことを言うとパニック障害で苦しんでいる人に叱られそうだが、これはわりと陽性の症状だと私は感じる。

陽性とは、わりとすぐに治りやすい症状とも言えようか。しかし、体験した人ならわかるように、最大級の不安と発作が症状として起こる。

脈拍150 血圧200を超えるような、そんな極まった状態になって発作を起こす場合もある。そんな極まった症状が精神症状として存在すること自体が凄いと思うが、これは人が死に直面した際の恐怖による、自然な肉体的反応ともいえる。

あまりに症状が激烈なため、人は一度これを体験すると、二度とそうならないようにと、考え得るあらゆる防衛策を講じだす。

電車に乗った際にそうなった人は、なかなか電車に乗れなくなるし、外に出ること自体が恐怖となっていく。

エレベーターに乗った際にパニックに襲われた人は、もう二度とエレベーターには乗りたくないし、実際に乗らない選択をし、何十階もの階段を上り下りするようになるかもしれない。

最初はよい運動で精が出ますね、、、、というように見てくれていた人も、何かおかしくないか、、、と気づいてくる、、、そうして不思議なこだわりや異様な行為と思われるようになっていき、そうやって神経症は周囲から孤立するケースも出てくる。

その前に自分で世界を閉ざしてしまうケースももちろん多い。

パニック障害に悩む人はかなりいると思う。しかし、これは私は病気ではないと思っている。もちろん医学を無視した個人的見解としての話しだが。

私自身若かりし頃パニック障害となりそれを克服し、そのメカニズムを自分なりに知り、その知恵を元に、それこそ精神科医のパニック障害を助けたことさえある。

ニッポン放送の人生相談も長いが、パニック障害の悩みも何度か対応してきた。

私を育ててくれたのが、このパニック障害にあったのかと最近では思うこともある。

森田療法創始者の森田博士は、神経症やその発作にあたる、パニック障害の会の名称を付ける際に、神経症礼賛会がいいと一人言い出し、弟子たちの反対にあって諦めたというエピソードがある。

森田にとって、神経症は病むべきものではなく、まさに礼賛に値する価値がある生きる人間の自然な症状であったのである。

パニック障害に悩む人は多いが、それがどんな宝の入り口となるかをまだ知らないでいる。確かにそれは人生最大の恐怖であることは確かだ。

のど元にナイフを突きつけられ、殺される直前の肉体と精神の自然な反応と症状がパニックなのだから、最大の恐怖であることは事実なのだ。

しかし、パニックに陥る人は、実際にのど元にナイフを突きつけられているわけではない。それがナイフに匹敵する恐怖であるととらえる心理には、よりよく生きたいとの壮絶な生への思いと執着が見れるのです。

思えば、人は皆、幸福になりたいと思いつつ生きている。なのに幸福になる人は少ない。よりよく生きたいと思いつつパニックをもたらしてしまう、、、

それは感情と意識のギャップがあることを調整できずにいる人間の悲劇とでも言えようか。

感情のままに人は生きることは絶対にできない。しかし自分がことさら大切であるとの執着にとらわれた人は、それを最大限に推し進めようとして、現実との乖離に対応することができなくなっていく。

きょう、パニックの日というが、ちょうど夏の終わりであり、夏の中に冬が徐々に到来し、侵入してくるという自然を享受できれば、人はときの流れをただありがたく受け入れることだろう。

歳をとる、、、老けていく、、、生老病死を恐怖ととるか自然ととるか、、、それは人情としては恐怖であるが、恐怖しつつもそれを事実として受け入れていく姿勢が何をもたらすかは、実践しなければわからない。