1億円の散歩道

今わの際にある人が、ふっと思い出したように、「もう一度でいいから、5月の緑薫る夜の道を散歩してみたい、、、それができたら一億円出してもいいよ、、」

実際にそんな話しがあったかは知らないが、きっとそんな思いを抱いて天に昇っていった人は多いのではないだろうか。

夏の潮風、、緑なす高原の様、、人のいない雪原、、せみ時雨の森、、、一億円だしてもいい光景は人によって異なるかもしれないが、そう思われた方がきっといる。

しかし実際には、風薫る5月の夕べに、「おい、散歩しないか、、、」と妻を誘えば、「ごめん、、洗濯しなくちゃ、、」娘を誘えば「宿題あるから、、」

そういうケースが多くなるのでしょう。一体、私達は何のために生きているのか、何かを間違えているような、そんな気にもなってきます。

風薫る夕べに、心許した者が連れ添って散歩する価値は、人が死を前にした時なら、一億円以上の価値があるに決まっている。

その時、ああ、散歩しておけばよかった、、、せめてもう一度、あの薫る空気を胸いっぱいに吸ってみたい、、とそう思うものだと思う。

なのに私達は、目先のテレビ、、明日の仕事、、、日常のルーチンに追われ、日々変化している宝物に気付かない。

それが経済優先ということなのだろう。経済は人殺しの戦争という手段にまで及ぶ失態を演じているが、いずれ運命の復讐を受けるに違いない。

そうして儲けた何億の金も、何兆の金でさえ、5月の風薫る夕べに勝つことすらできないのだ。

金を得るために人を殺し、武器を磨き、策略を用い、、勝手にやればいいが、死に際して、そうして儲けた金が一呼吸ほどの価値すらなかったことに、気付く時がやってくる。

彼らの考えは、死んだらおしまいなのだから。

私達の前には、いつでも一億円の散歩道があるのだ。なのに、それを捨て、私たちはどこへ行こうというのだろう。

歳時記には季節の移ろいが詳細に書かれている、、、それは実際の自然の中で、今も行われている実際の姿なのだ。

愛する者と、、親しい者と、、心許した者と、、自然の変化を楽しまずに、人生が満足することなどありえない。

金を持ったら勝ち、、、との信条など、死の床であっさり覆されることを知っておかなければ、きっと進む道を間違えてしまうだろう。

一億円の散歩道を歩くことなく、私たちは何をしようというのだろう。 空気が汚染され、水が汚染され、もう昔の地球とは違ってきている。まして江戸時代の水や空気はもう戻らない。

いま、ここに大古の水、大古の空気があるとしたら、それはどんなに価値となるのだろう。

5月の風の中、親しい者と歩く散歩の価値を、他のものに置き換えることはできない。
何を大事にして生きていくのか、、、、地球と自然が私達に問いかけてくれる、そんな季節となっています。