梅雨に咲く花
例年よりも多少早い梅雨入りらしい。梅雨はうっとおしいが、緑は美しくなる。
私はこの時期が好きで、梅雨空に突然咲く立葵を見るとなぜだか胸が熱くなる。立葵の思い出は昨年のブログにも書いたと思うが、この花が好きである。
昨日までまったく気配もないのに、突然咲き乱れる立葵。背が高い分、強い風が吹くとすぐに倒れてしまう。
心棒でもつけてあげたら長く咲くとおもうけど、人の手が入った立葵をこれまで見たことがない。
朝顔でも糸や竹ひごを伸ばし手入れされるのが普通なのに、同じく手入れが必要な立葵はいつもどこでも自然のまま。
あんなにきれいなのに、あれほど手入れされず、ことさら大事にされることのない花。
群生することが多いので手入れも何もないのだろう。固い土でも突然咲きだす強い花。
余りに庶民的でプレゼントされることもなく、家の中に飾られることもない野の花。
立葵を渡してプロポーズしたら、怒り出す女性だっているかもしれない。バラやカラーでないと絵にならないのかしら。
私たちがつい忘れてしまいやすい宝物はきっと多いと思う。ほんとうの宝物であるほど気が付かない。
昔、読んだ本で印象に残っているアメリカ人の話しがある。作者は潜水艦にのって太平洋戦争に出ていた。
しかし日本の戦艦に見つけられてしまう。日本の駆逐艦はしつように潜水艦を探し、海上から爆弾を投下する。
エンジン音が出ていると発見されるので、潜水艦はエンジンを停止。艦長の命令は、寝ていろ、、、だった。
クーラーが止まった船内は異様な暑さになったという。その中でただ、黙って寝ているだけ。
日本艦船から落とされる爆弾によって、海底の潜水艦は木の葉のように揺れる。
次は命中するか、、、次はどうか、、、と、それこそ生きた心地しない時が三日続いたらしい。
作者はその時思ったのは、「神よ、もう一度、青空を見ることができたら、私は今後の人生においてどんなに苦労しようと不幸に会おうと、決して文句を言いません。」
というものであった。毎日のように見ている青空がどんなに貴重であり、普通に生きている、生かされている現状がどんなに奇蹟的に幸せなことかを、作者は魂に刻み込んだのです。
私が立葵に恋心を感じるのも、もしかしたらそんな通常の普通の、よくある、あたりまえの、決して美人ではないが、特別ではないものの、、、、の総体として、どこかで感じ取っているからなのかもしれない。
特別なものは確かに特別に美しいが、通常の当たり前の、ごく一般の中に息している命を見たとき、人はどうにもならない宝物を感じる。
昨晩、パン屋さんでひとつだけ残っているアンパンがあった。さすがに一つだけ売れ残る理由が見えた。たくさんのアンパンに押されたのか、四角く変形している。丸みも残ってはいるが、妙に四角ばったアンパンである。
一般的なアンパンから言うと形が悪い。しかし食べてみて、本当においしかった。四角くなっているせいか、アンの配分というか、パンとアンのバランスが口の中で絶妙にあうのだ。
通常の形のよいアンパンだとアンが多くなる部分とパンが多くなる部分のアンバランスが生じ、最初の一口目はどうしてもパンの部分が多くなる。
その反動でつまらぬケチぽさが生じ、最後の方でアンを大目に残したりするようになるが、そうなると、微妙においしくなくなる。アンが多ければいいというものではないのだろう。
本当にくだらない話しでどうでもいいようなものだが、四角く変形したアンパンはアンバランスがなく、とにかく美味しかった。
けっきょく何が言いたいのか自分でもよくわからないが、魂に入り込むものは、通常の一般のその時は、私たちはつい見逃し、その価値にきづかないものに多いのだ。
形なのではない。外見に囚われていると、私たちはそれに気づかない。人は死ぬ際にこれまでのことを思い出す時、はじめて本当の宝物にきっと気づくのだろうが、それでは遅いしもったいない。
元気で生きている人たちは、実際に誰ひとり、四角く変形したアンパンを買うことはなかったのだ。私たちが何を見て日頃生きているのかは明白である。
八百屋さんに一本残ったまがったきゅうりは、きっと一番美味しいきゅうりだったのだ。
もしかしたら人もそうなのかもしれない。
飾り立てたもの、、、演出されたもの、、お膳立てされたもの、、そこに命や人生を決して賭けてはいけない。