21日おうし座新月

ぶしつけにだが、幸福とは一体何だろう。
幸福観は人によって異なるのは当然だが、幸福感は本当の幸福に共通してはいないだろうか。

幸福感を感じることができる幸福は本当の幸福で、自身に幸福感の感じられない幸福には、何か無理はありはしないだろうか。要するに頭で考える幸福。

大金持ちには誰でもなりたいけど、本当に大金持ちになったら、幸福感が抱けるか、、、有名になったら幸福感が抱けるか、、、、私は職業柄、多くの方々の人生を知る立場にあるが、その方が有名だろうが金持ちだろうが、それはその限りでの幸福の保証であって、自身の幸福感とはあまり関係がないように感じる。

幸福感のない幸福など、あまり意味がないようにも思われる。反対に、苦労しようが貧しかろうが、そこに幸福感があるなら、人はやはり幸福なのだ。

昔、ジプシーは森の中で夜になれば酒を飲み、踊り、歌い、恋をし、、、、
日本でも縄文人はおそらく同じだったと思うし、アイヌの人も同様だったと思う。

なぜか、国を統一するとか、権力を得たい、、、という劣等感的な欲望の前では、必ず、こうした人々は迫害される。

幸福感のない幸福を求める人にとって、彼らが考える不幸な状況においてもなを幸福感を抱いてしまう存在は許せないのかもしれない。

そうして人種的な悲劇や争いの犠牲が絶えずこの地上では生まれてくる。

誰もの中に、幸福感が宿っていれば、決してそのようなことは起こりえない。

幾多の幸福観は世の中にあるものの、幸福感はひとつで共通している。幸福感のない幸福はインチキといってもいいのではないか。なぜなら、幸福感のない幸福観によって、幸福になれる人も幸福観によって人を幸福にすることもできないのだから。

では、幸福感とは一体何か。それは心と体に同時に感じる喜びではないだろうか。心だけでもなく体だけでもなく同時に起こる現象が幸福感。これは本物であるに決まっている。

宗教における悟りも、必ず、悟りには幸福感がつきまとうという。幸福感と一体であるという。幸福観とは関係がなくなる。

法悦境というのがそれなのかもしれない。とにかく、心だけのものではない。確かな体感である。体感なく「私は幸せです、、、」というのには、嘘があるか諦めがあるか間違いがある。

人は理想のためにそんなには強い存在ではない。体感としての幸福感が共なわない限り、幸福であるはずがない。だから、人は理念だけでは、理想だけでは、必ずきれいごとで終えてしまう。そこに命が伴わないからだ。

幸福感は命あっての感情であり、命ある者だけに感じられるものだから。

この幸福感を奪い、インチキな幸福観を幸福と思わせることができれば、人類は支配しやすいのだと思う。

なので、われわれに必要なものは、インチキなきれいごとの幸福などではない、体に感じ、一体となる心にも感じる幸福感を伴う自分の人生なのだ。

それを取り戻すにはどうしたらいいのか。
イエスはよく「安かれ」と語った。平安ということであるかもしれない。安らか、、、、な状態の中では、人は幸福感を抱ける。

金を追いかけ、、鼻息が荒く、、、ピリピリしており、、時間に追われ、、、成績を評価される恐怖の中で、、成果を求められ、、、責任を追及され、、、嫌味を言われ、、、、ゆったりとさせてもらえない。

これで何億もっても、どんな権力を得ても、、、幸福感は訪れまい。

金はないよりはあるほうがよい。力もないよりはあるほうがあるいはよいのかもしれない。頭も悪いよりは良いほうがよい場合も多いのかもしれないが、、、、、実はそれ自体もあやふやだが、これだけは言える。そのことと、安らかであるということには、何の関連もない。

この地球をひとつにまとめ、人類をひとつにし、思うように飲み込むためには、人が安らかであることが何よりのつまずきとなる。

なぜなら、人は存在するだけで幸福だからである。幸福な者は権力にも金にも欲求にもおもねない。なので、人を支配したがる国にとって、民衆が安らかであることは、実は困ることなのである。

集団ヒステリーのほうがまだ良いと、そう思うに決まっている。集団ヒステリーに近い状態にさせておけば、自由に何億の人間でも扱えるし、戦争も自由に起こせる。

うまいものである。イエスがなぜ、「安かれ」と言うのか、、、そこに答えがあるのではないか。

金に終われ、時間に追われ、、責任に負われ、、、、の先に述べたことは、すでにわれわれ現代人の常態であり、すでに私たちは集団ヒステリーを表現しているといっていい。

私たちを救う道は、「安かれ」に代表される、幸福感ではないか。実際に感じることのできる幸福感。理想の幸福でもかくありたい幸福でもない、今、体と心が感じる幸福。それを取り戻さなくてはならない。

方法は意外に簡単なのである。神が好むことは何でゆっくり行うことなのだが、合理的追求や最大限の利益追求による時代性によって、ゆっくり、という価値感はなくなりつつある。うまくやられてしまったのだ。

なぜゆっくりやるとよいのか、、、副交感神経が働くからである。副交感神経が働く状態でないと、心にも体にも感じる幸福感は訪れない。

どんなにすばらしいことをやっても、そこに副交感神経が働かなければ、幸福感はやってこず、原理的な窮屈な理想の幸福に入れ違ってしまう。

現代を見ていると、人間の副交感神経の働きを阻害するものに覆われている。これはもしかしたら、方法論であったのかもしれないと思えるほど、そうである。

心と体をやすらかにさせない騒音、、、
体と心を喜ばせない食事、、、
仕事はノルマ、最大利益、、合理性の追求、、
家に居ても現代的価値観に惑わされた親や子、、、家においてもやすらぎは重要とはなっていない現実。

こうして私たちは、徹底的に副交感神経がバランスよく働く環境を失い、大体は交感神経優位、、、副交感神経優位すぎる欝など、両極端にされている。

要するに、幸福感を抱かせない構図が意図的か偶然かはわからないが、この社会を覆っている。

それが私たちが普通に幸福感を抱けなくなった理由である。

これを取り戻さなくてはいけない。副交感神経をバランスよく働かせることの重要性とその方法については、順天堂の小林弘幸教授が力説されている。

 さて、来る4月21日はおうし座の新月だ。この新月に私はとても期待している。その星の配置がすばらしい。

新月はおうし座の2度近くで起こるが、その新月に対して、幸福をもたらす木星がおうし座で合。火星、海王星、冥王星がことごとく良い角度を形成する。

この配置を見て、何、この世からもう貧乏などなくなるじゃない、、、、といいたい気持ちになった。これまで富の独占によって奪われてきたものが、再配分されるような可能性を感じる。実際にそんなことが起きるかどうかはわからないが、もう人類は貧乏で悩む必要などない、、、という天のメッセージに私には見える。

そしてもうひとつ、おうし座は不動星座であり、なかなか意見や考えを変えない。だから頑固者とも呼ばれるおうし座が多いのだが、これが愛になるととたんに美点になる。変わらぬ愛、、、普遍の愛、、、おうし座に太陽や木星、金星などがある人から愛された人は幸福である。

この新月の力を使って、4月21日には、おうし座の星のローズ水プレミアムが。また、変わらぬ愛を願って、純銀タリスマンシリーズおうし座では、「永遠の褥」(とわのしとね)の製作を開始。

写真は純銀タリスマン「永遠の褥」(とわのしとね)。
太陽と月を乗せた船が夜の海をゆくエジプト絵画をモチーフに、男性原理と女性原理の永遠性をタリスマンとして閉じ込めるつもりです。

 愛する人との愛の永遠性と、、、愛する人がいない方には、本物の愛をささげるに足る対象の出現を願って作ります。

おうし座プレミアム、および、おうし座タリスマン「永遠の褥」(とわのしとね)は、マドモアゼル・愛公式ショップにて受付中です。

マドモアゼル・愛 公式SHOP