秋深し
さびしさに宿をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ
深まる秋のさびしさは自然の中に入るとひときわ感じられる。昔の人はそのさびしさを受け入れ、自分のむなしい心と面会し、それを受け入れることで自分自身を保つことができた。現代人はこうした秋の寂しさを受け入れる者も少なくなったし、なにより、秋のさびしさを感じ取る自然と離れてしまった。
秋の自然のさびしさを受け入れるとき、人は自分の内面に出会う。自然の中にいる限りは、むなしい自分との対面は避けられない。そこで人は自分を受け入れざるを得なくなり、そのことを通してリアルにあるもの、むなしさの中においても消えていかぬものに気づける。
都会には秋のさびしさはなく、あったとしても、ノイズが、照明が、喧噪が寂しさを気づきにくくしてくれる。そこで人は自分の寂しさとむなしさになかなか気づけない者になっていく。顧みられなくなったむなしさは、知らぬ間に恐ろしい虚無を構築していく。つまらなすぎるおろかなテレビ番組にうつつをぬかし、笑いこけている人を見ると、何か、どうにもならないさびしさや孤独を感じるのは、その裏につみあげられている大きな虚無を感じるためである。テレビの人気が亡くなっていくのは、当然の成り行きだろう。もう現代人は自分の内に積み上げられた虚無を、無視できないレベルに達している。自然の秋のさびしさを受け入れることは、そんな現代人を実は思いなおさせるきっかけになることが多いと思う。深い秋のさびしさを受け入れていると、そこに漂う美と、死の予感を感じるかもしれないが、それで終わりになるのではないという生命の流れの中に自分を見出すきっかけに気づけるようになる。滅びゆくものもは美しく、しかも大きな生命への期待と流れの中での安心感を抱かせる。源氏物語の秋好中宮は、春を待つ人情の中では特異であっただろうが、秋のさびしさが大きな命の入り口であることを、中宮は実感したのだろう。
11月は草木が一時的に死に、木の葉が落ち、森は静まり、人は目を落とす。そして、夕暮れの進行と共に、人は「家に戻ってスープをつくろう」でも「家にもどってお風呂に入ろう」でも「家にもどって恋人にメールしよう」でも「家に戻って音楽を聞こう」でも何でもいいのですが、寂しさをふりしぼった中から出てくる生へつながるかろうじての行動に出て、生命としての分を知って生きるようになっていく。
原発があるからいつでも電気はフル活用オーケー。金があるからなんでも買える、、、にぎやかなところに繰り出せばいいや、、、そうした感性は秋を知らない、深い秋から遠ざかった現代人の行動パターンであり、深い虚無を知らないうちに作り上げていく。そのうち、積み上げられた虚無がその存在のありように挑戦するように、こうした現代性を破壊し、奪っていくことになるだろう。それは意地悪ではなく、人間が本来の姿に戻るための自らが与える試練なのだ。今、起きている悲劇の数々は、人為的であり、深い秋を遠ざける策謀とも一致するが、積み上げられた虚無は必ず表に現れ、人為的なものを壊すことによって、我々を救い出そうとしてくれる、そうした時代が始まった。