イデオロギーのつまらなさ

私がイデオロギーに見切りをつけたのは、学生時代に清水谷公園でのある出来事があったから。当時はどの大学もロックアウトされた全共闘時代で、デモが多かった。私も流れにまかせて清水谷公園でのデモに行ったら、けっこう物騒な雰囲気で公演は完全に機動隊に取り囲まれていた。突破して出ていこうとする機動隊と学生の間に緊張が走り、しばらくのにらみ合いが続く。かかれ、という機動隊の合図と、突破しようとする学生のどちらが先に動くか、、、そんな中、大音声で現れたのが、焼き芋屋だった。「おいも、おいも、おいもだよー」あまりの場違いさ、、のんきさ、面白さ、、に、学生はもちろん、機動隊も大笑いを始める。私はその時点をもって、イデオロギーを捨てたのでした。不毛のイデオロギーから救い出してくれた恩人は私の場合は焼き芋屋だったわけです。
 リビアではカダフィが捕えられ、殺された。あんな惨殺を許すような勢力が次の時代を作れるわけはないが、なぜカダフィが殺されたのかは、おそらく口止め。死人に口なしというわけで、民衆に殺されたように印象操作することで口封じをされたのでしょう。リビア国民はもうしばらくすればすぐに、なんだかおかしいぞ、、、とカダフィ以上のもっと上手の本当の敵に気づくことになるけど、その時はもうマスコミを抑えられ、本当の真実は伝わらないでしょう。
 イデオロギーの中でも、「働かぬ者食うべからず」ということわざが私は嫌いだ。人間は何ひとつ持たずに生まれてくる。周囲の愛や人情がなければ生きていけないところからスタートする。あらゆる存在をその意味あいを考えず、価値基準を通さずにその存在を許さない限り、イデオロギーの不毛世界に行きついてしまう。ただ笑っているだけで世の中の役に立っている人もいれば、ただ存在するだけで大きな力を与える人もいる。働かぬ者は食うなとは、暴力の発想であり、命を知らない者の言葉だ。それを許したら、おそらく人類削減はすすめられてしまう。アメリカではごくつぶしをどうするか、、、という観点から本気で政策が行われる可能性も高い。自然は誰にでも厳しいが誰にもプレゼントを与える。自分では食べられない量の実をおしみなく与える。気前がいいのだ。この世の中は、今行き詰っているが、効率や利益ではなく、本当に命から物事をとらえていかない限り、みんなが大損することになっていく。
 カダフィもつまらなかったが、カダフィを殺した勢力はもっとつまらないものだろう。働かぬ者食うべからずの政策がこれからどの国にも起きてくる。働きたくても、仕事がないのだが、そんなことはどうでもよく、働かない者は、働けない者が、生きていけないような政策が打たれていく。心の冷たい人によって。心のない人を上に立てたのは私たちなのだから、まあ、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないが、まあ、ひどいことになると思う。いま、必要なのはイデオロギーではなく、命の発想と感性による時代の建設だが、まったくそういうことと正反対の勢力が地球支配や国家支配の上に立っている。本当にカダフィはひどかったが、あんな風にしてカダフィを殺してしまうやり方を許すのは、もっとひどいことが、これから運営されていく証拠。ここらで、ひとりひとりが、もう少し目をさまし、マスコミが言ってきたことは、実はほとんど正反対だったのではないか、の観点から物を考えるのも面白いと思う。悪く言われてきた人が、本当にそうだったかどうかも、どうやらあやしいのではないか。最近の人だけでも考えてみると面白い。マスコミが悪く言うのは、なぜなのか。むしろ反対だった、、なんてことが多いのではないか。野田が首相についたころ、マスコミは野田のことをかなり悪く言ったが、最近はそうでもなくなってきた。なるほど、段々と野田は民意から離れていっているのだな、、、などと、物凄くわかりやすいかもしれない。インチキリトマス試験紙として、マスコミはしばらく使えるかも。