受け身開運法

色々な開運法が世の中にはあると思うが、もっとも簡単かどうかはわからないが、比較的簡単なのは「受け身開運法」だと思う。
 受け身とは自分を捨てることだが、日常の感覚の中で、私たちは用心深くなると、なんでも自分の目で見、自分の頭で考えようとし、結局はかたくなな自分の殻から出られなくなる。ならば自分を捨てるつもりで、すべての事柄、すべての事象や現象、さらに体感すらも、一切がプレゼントであると受け止める。目に入るものが、緑であれ、水であれ、土であれ、すべて、目に見えるものはプレゼントだと受け取る。一切の解釈の必要はない。ましてそこに何か危険があるかどうかと疑心暗鬼になることもない。すべてがプレゼント。風も光も音も空間もすべてがプレゼントであり、正しい受け止め方は、受け身。おかげでひどい目にあった、、、ということも中には起こるだろうが、それもプレゼント。批判を加えず、判断を加えずにいれば、おのずとなる判断はかえってできるので、そんなにひどい目に合うことも実はなくなる。ひどい目にあうのは、本当は疑心暗鬼になり、自己防衛を前もってやってしまう態度がもたらす時の方が実は多い。風に意思があり、大地に意思があり、地球にも惑星にも宇宙にも意思があるとなれば、こちらはレシーバーとなって受け取る方がずっとお得。こちらの中にある、風、大地、地球、惑星、宇宙とそれがつながればいい。そうなると一体感がいずれは出てくるのだろう。私もそこまではよくわからないが、きっとそうなのだと思う。受け身という言葉がいやなら、任せるでもいいかもしれない。そうなると何もせずに、ただまかせっきりで進歩がないと、こずるい知性は考えるかもしれないが、そんなことはない。すべてがプレゼントということは、その中身を知りたくなる。中身のわからないプレゼントはもらわなかったも同然。いつも、どこでも、どんな時にも、私たちは、宇宙のプレゼントに囲まれている。いつももらっている。その中身が何かを知ることは義務でなくて何か。すぐにわからないプレゼントが実は多いのだが、それはあとで包装をはがせばいい。わかるものだけでもかまわない。その時、プレゼントを知るための言語が必要となる。その際の言語は、イエス、ノーではない。好き嫌いでもなく、どちらかというと抽象言語である。抽象言語をどれだけ持っているか、、どれだけ長けているか、、そのことは結構大切だ。私はよく母音発声によって物事にアプローチするが、それも一つの方法だ。絵に描いてみるのもよい。踊りでもよい。素晴らしい踊りとなれば、すごいコミュニケーション能力を獲得することにもつながるだろうし、異性にもてるようになったりもするかも。自分にやってくるもの、自分へのプレゼントの連続が自分の人生だと思えば、もらいものリストが作りたくなるだろう。なので、人生とは、やはり表現者になることに他ならない。高度な表現言語が持てるかどうか、、あなたへの途切れることのないプレゼントが何なのか、あなたの表現を地球も惑星も風も緑も宇宙も待っている。