放射線考

花崗岩やラジウム鉱石など、自然放射線を出すものは数多いが、本当によくわからないのが、この放射線というものである。いまは、放射線の肯定的な側面は非常に言いにくものがあるが、色々な仮説を立て、それに沿った検証は大事な気がする。放射線は体によい、、、と語って袋叩きにあっている学者は多いが、その背景に東電擁護のインチキさを感じての場合が多い。要するに御用学者。これは問題外であり人類の敵とも言えるが、まじめに研究してきた学者の中にも、果たして、放射線は体に悪いのか、それとも良いのか、本当にまだ分からない、、、と考える人もいるのではないか。実は私もまだよくわからない。まず、偏見をまじえず、冷静に考えてみると、自然放射線は色々な場所で色々な状況で放出されている。また、放射線が遺伝子情報を書き換えてしまう、、、という面は間違いなくある。また、組織を刺激して少量なら活性化を行い、大量ならば組織を死滅させる、、、ということもわかっている。ならば、少量の放射線なら、組織を活性化させて体に良いとも考えられる。いや、それは一面でのことで、長い時間がたてば、その弊害はきちんと現れてくるので、やはり放射線は悪い、、、ととらえる人も当然いる。今の時点ではどちらにも軍配が上げられない面がある。共通しているのは、大量の放射線を浴びると組織が死滅し、これは問題外でよくない、ということは共通している。では、組織を死滅させる量とはどの程度なのか、、、これについても、大体は統一見解があるので、いいだろう。では、体に良いと言う考えの人は、どの程度の放射線なら体によいと考えるか、、、である。ここに問題があり、これは人によって違うらしいのだ。塩分にしろ、脂分にしろ、取りすぎるのはよくないが、ではどのくらいからがいけないのかは、本当に人によって異なる。それと同じ原理かどうかはわからないが、放射線も同様の傾向がある。あと、細胞分裂の激しい幼少の時代と大人とでは当然差異がある。これについては、幼少の方が断然放射線の影響が大きく、危険がある、、、という統一見解があると思う。放射線の問題は感情的になるとどうしても答えに近づけない問題であり、今は感情的になるなと言っても、どうしてもひっ迫しているだけに、この問題を扱えば、どうしても感情的になってしまう。これも当然。子供を持つ母の気持ちになれば、おそらく真剣であり、感情的にもなるのが、自然だから。さて、どうしましょう。
 勝手な私の考えだが、私は放射線が悪い、というのも、良いというのも、どちらも正しいと実は思っている。それをどう自分の状況にあてはめて受け止めるか、、、実はそれが大切であり、どういう考えにも沿った現実的な対応策を、政府が行う、、、という点がこれから大事になってくるという考え。一律にこうする、ああする、、、ではない対応策。その上で、放射線に対する色々な可能性が出てくるのではないだろうか。
 遺伝子を書き換えるとは、奇形などの悲劇を生じることでわかるが、逆に言うと、進化の可能性もあることになる。あらゆる動植物は進化の過程にあるらしいが、進化は優性遺伝、劣性遺伝などで、時間をかけて行われたというよりも、ある時、突然の放射線を浴びたりして、大きく変化した、、、と考える方が自然な気がする。放射線があったから、動植物は進化するのであって、動植物は放射線を利用して自分らを変えようとしている、、、とも考えられる。ただ、こうした進化にそぐわず、種を閉じていった動植物も非常に多かったと思う。むしろ、断絶した種の方が圧倒的に多かったのではないだろうか。すると、動植物にとっては、やはり放射線は絶滅を引き起こす、非常に恐ろしいものとの認識はあり、それは自然なものとも言える。ながらくこのままの状態を維持したいと思う遺伝子にとっては、放射線はあまりよくないものとなる。しかし、それまでに不自由を感じ取っていて、もっと別のものになろう、、なりたいと思っていた遺伝子にとっては、放射線は救いの船となり、自分らを変化させ、新たな新天地に連れて行ってくれる特別なものともなる。ここに、断絶を選ぶ遺伝子と再生進化を選ぶ遺伝子とが相克する。放射線は当然、後者の遺伝子と結託し、新たな生命として誕生することとなる。
 では、人間にとって、断種となる方向と進化となる方向の違いがどこにあるかがわかればよいわけだ。乱暴な意見だがおおざっぱに言っているので、軽く聞いてもらいたい。その違いは、生きたいと思う意欲、死にたいと思う気持ち、、、で別れると考えるのはどうだろう。というのは、私は長いこと人生相談をやってきて思うことがある。どんなに苦しんでいても、それが生きようとする気持ちの中から出てきたものなら、必ず、どうにかその人は脱出の糸口をいずれ見つけ出す。しかし、悩みの中に、本当は自分の抹消を願う気持ちがあると、問題の解決の糸口は容易に見つかるものの、あまりうまくいかない。そして思うのは、人間は、自分自身で生きるスイッチか、もしくは死に向かうスイッチかを、常に押すようにできているのではないか、、という感想である。もし人間が生きる方向か、緩慢な自殺を願う方向か、どちらかのスイッチを押しているとするなら、放射線はその違いを敏感にキャッチし、断絶と進化の違いを実現してしまうのではないか。そんな推理も成り立つ。
 東電の御用学者で有名な偉い方が、放射線というのは、笑っている人には影響がないのですよ、、、これは実験でわかっているのです、、、というような物騒なことを言って、非常に大きな非難を受けた。私もそれは震災のど真ん中にあって、放射線の恐怖におびえ、その対応すらまじめにしてくれない政府という、どうにもならない中で、そんな意見を言う無神経さは断じて許せないが、あの発言にはあの人の本音が実はあったのではないかという感じを受ける。長年、放射線を研究してきて、あれ、こんなに放射線を受けてるのに、こいつ、どこもおかしくならないぞ、、、、というような悪魔的実験を本当はかなりやっていたのではないか。その中で、やはりこれだけの放射線を浴びると、そうそう、やはり弱って行ってるな、、、という多くの人の隠れ実験の中で、中にはそうでなく、むしろ元気になってしまうケースを何度も見てきて、その違いが、陽気な前向きな人の場合はそうなるという個人的な確証がおそらくあってのものだと思う。
 緩慢な自殺スイッチか、苦しくとも生きるというスイッチか、我々はきっとどちらかを押している。となると苦しくとも生きるスイッチを押す者はおそらく進化を遂げていく。乱暴な意見ではある。しかし推論として可能性として、これは我々の助けになる。何も、率先して放射能を浴びろとは言えないし、そんなことは不要であり、間違いである。幸福とはこの変わらない日が永遠に続くことでもある。終わりなき世のめでたさに、幸福の本質はある。しかし、その中でも、悪人がおり、残念ながらも放射線をばらまかれてしまった、、、という事実もあるのだ。その中でも、我々はやはり生きていかねばならない。ならば、それに相応する考えや物理的真実も必要であり、それを仮説し、推論し、利用していくしたたかさも必要なのである。だから、こういうことを言っている。不幸にも放射線を浴びてしまい、不安を抱く人、、、、福島の人もそうだし、私も、そして多くの日本人が実はすでにそうだと思う。内部被ばくは今後どんどん進んでいく。しかし私たちはそれでも生きていく、、、その中から、新たな真実がいずれ出てくる。その中には、大きな悲劇を通しながらも、日本人を元気にさせ、ある意味、進化させるものがきっとある。私は間違いなくあると思っている。しかもそれは単なる夢や幻想とは異なる物理的な真実を通してのものである。神のプレゼントは最後まで人間的な心だけでは理解できないだろう。