仕事を間違えた人
太陽風の影響か何かはわからないが、この数日、独特の体調のおかしさを感じた。これまでにない感覚で、一見すると不調ではあるけど、これを甘んじて受ければ細胞が変化する、というような奇妙な印象があった。たとえば、船酔いは非常に気持ち悪いが、自分が船の揺れと一体化することでかなり防げる。揺れまいとす心と体の抵抗が現実の揺れを拒否することによって船揺れは増大するというメカニズムを語ったのは、森田正馬博士だが、それと似たようなことがこの数日起きていた。どうにもならない体感に対しては、逃げることを考えず、十字架となってそれを甘んじて受け止める、、、これは人生の受け止め方として一級だが、肉体の苦痛や精神の苦痛にもっとも有効な方法ともなる。試す人が少ないので一般論にならないだけである。
体調がおかしくなったのにはもうひとつ理由があった。あるところのファーストフードを食べると、異様な眠気を感じるのだが、お付き合いで食べたのち、やはりどうにもならない眠気が襲ってきて、その後、異様な体の重さを感じた。この食べ物はまだ、変わってないのだな、、、というあきらめというか悲しさを感じた。食べ物とは名ばかりで、これは化学物質を食べている、、、化学物質を食べ物風に見せるために、莫大なお金をかけて研究し、習慣性のある味を研究し、子供が癖になるような研究をし、安くして貧乏人が結果的にそれを食べるようにする研究をし、、、一体何が目的なのかはわからなぬが、こうした者にかかわる人は、仕事を間違えた人と言えるだろう。現代では仕事を間違えた人が多いのだ。仕事を間違える理由は経済のためということだろう。今回の原発対応の異常さも、経済のためにおかしなことになった。すくなくとも表向きの理由は経済のためだ。福島の農産物など、本音では誰も食べたくない。それを言うと風評とされるが、本音では食べたくなくて当然だろう。政府は日本人の健康よりも経済をとったわけだが、本当は経済のためにもまた風評を防ぐためにも、実際の数値を念蜜に調べ、ただ安全だというのではなくて、安全か不安かは国民に判断させるための情報公開の徹底が必要なことは誰にもわかる。なのにそれをせずに、ただ安全だと言い続け、福島産に対する危険を口にすると風評だと批判する。これって、もっとも国民を不安にさせ、結果的に福島産他の農作物に対する不信をかえって広めることになることは、ちょっと考えればわかるのではないか。奇しくも、原口が言ったように、事故後、本来はすぐに冷却を始めなくてはならないのだが、なぜ、手動によって三回も冷却装置を止めた理由がわからない、、、というのと同じ疑問である。あのとき、自動冷却装置が働いていたら、こうはなっていなかったかもしれない、、、と原口氏。まさにその通りであるが、マスコミは決して原口の言葉を表に出さない。原口氏の身辺の安全を願うばかりである。
風評被害も同様で、もっとも風評が広がるようなことを結果として行っているのは、どういう意味なのだろう。なんだかとんでもないことが日本を世界を支配しているということが、だんだんと色々な人の目に映りだしてきている。とくに被災者の多くはもうこのことを知っている。そうした者たちの存在を許したのが、経済のため、、、という考えである。しかしそれもうそであることに気づかなくては悲惨なこととなる。テレビやラジオでは、いかにも福島産のものを買いましょう、、、的なことを語っているが、放射能数値などへの信頼ないものを、無責任にあおり、さあ福島を助けましょう、、、と言っても、何かおかしくないか。多くの人が経済のためにウソをつき通す。こうした仕事を間違えた人が多くなっている。ファーストフードを食べて、体調をおかしくした人は大勢いると思う。経済のためということでは人は仕事を間違えていく。そんな甘いことを言ったら、誰も食べていけなくなる、、、という反論は一般的だが、果たしてそれも本当だろうか。すでに事態は反転してはいないだろうか。もう人をだましたり、ウソをついたり、体に悪かったりするような仕事には、かえって先がないのではないだろうか。全体が利益を生み出し、全体の利益になる方向は、今行われている経済活動の方向とはまったくことなり、今の経済活動は、すでに全体に巣食うガンと同じものになっているのではないか。全身をガンに覆われている地球に、このままでは未来がない時点に至ったのだから、これは物理的に反転せざるを得ないのだ。なので、経済のために仕事を間違った人は、このまま行っても決して満足も幸福も得られないことになる。考えてみれば、この世は間違った仕事だらけ、、、と言ってもいいくらいに落ちている。せめて、体に悪くない食べもの、体に悪くない医療程度は、国は企業と一体化することなく、国民サイドに立たなくては、いずれ国自体が滅ぶことになる。軍事一辺倒の国がかつてこの日本でも滅んだように、国だっておかしなことをやり続けたら滅ぶぞ。仕事を間違えた人は、経済のためにも、仕事を本当は変えなくてはならない時に来ている。何も仕事がない、、、というのもわかる。しかし、考えを変えたら仕事は自分でも作れる。その方面では地上は急速に適応しだしている。上はもう我々の苦痛を助けることはしない。むしろ我々の苦痛の上に自分らが逃げ延びようとしている。このことに早く気づき、間違った仕事を拒否することも時には大切になってくる。
かわりにどう生きたらいいかだが、私が最近言うのは、物を売るのではなく、サービスを売るのでもない。どういう時間を過ごすか、、、その提案を実行と働きかけだけで、おそらく家族一つ程度は維持できると思う。たとえば、読書好きな人は読書会を行う。それがどういう読書会で、どういうスタイルか、、、がその人流であれば、人は必ず集まる。ご飯と味噌汁付きの、読書会。食事後、徹底的に話し合おう、、、というだけで、関心がある人は集まる。10人集まったら、会費は1500円。ご飯とみそ汁がついて、好きな本のことをその後二時間も話し合えたら、きっと安いと思う。実際に行ってみて、非常に面白い、楽しい、こういう時間を過ごしたかった、、、となれば、何回でも行える。一回の開催では利益は1万円しかなくても、5回やれば5万円。自給750円で死にもの狂いで働かなければならないような仕事から離れて、こんなに楽しく5万円が得られる道があるとわかれば、人生は変わっていく。人間が変わっていく。そこには教える人もなく、売るものもなく、教わる人もなく、交流と信頼の醸造があるのみ。こうしたものを多くの者が求めだしている。だからやれば必ず人は集まってくれる。これまでのセミナーとは違う。そこには売るものがあった。教える、、凄いもの、、、ここだけの、、、、もう見られない、、、というような売りがあった。しかし、これからはそうではない。売るものやすごいものなど欲しくもない。信頼感の中で、心地よく、良質のときを過ごすことができる。人は本音ではもうそれを求めだしている。なので、人柄は確かに問われる。だが、人柄に問題が多少あっても、人が好きで、このことでいっしょい語りたい、集まりたい、、、というものがあれば人格問題も個性になってしまう。なので、誰でもこうした会を主催できるのだ。それを試しにぜひみんなやってください。そして、いずれ横に連帯していき、こうした会ではただ集まった人同士の人間的信頼をベースにしており、それを破ってはいけない、、、というルールのみを果たす。それを唯一の約束にして、色々な集会を行っていけば、きっと楽しくなってきます。次の時代の一つの形として機能しだします。朝までテレビ、、という番組が偏向しているとか色々な意見があるが、政治が好きな人は、どこかに集まって土曜日の夕方からそれこそ朝まで語る会をつくればいい。ただそこで大事なのは、ともにご飯をつくり、ともにご飯を食べ、、、、そこでの信頼感とやさしさ、ユーモア、、、そうしたものが実は命であるという流れを作れる人が主催すること。そうでなければ、きっとうまくいかないし、よい結果にならないと思う。それには、そうしたことを、金儲けオンリーで考える人がやってはいけない、ということにつながる。何をやっても、仕事を間違える人は出てくる。仕事を間違えないように自分の仕事を行う。そうすれば、実はファーストフード関係の仕事の中にあっても、社会にとっては有益なものになることもある。私が言いたいのは、ファーストフードや現在の仕事のすべてが悪い、ということとは違う。その中にあって、仕事を間違わないことの大切さである。自分の仕事を間違わなければ、それは社会にとっても有意義なのだ。私が青春期を育てていただいた高輪教会の故中島牧師は、平和運動に対するご批判として、平和運動という中で主導権争いをしていることを、嘆かれ、それはおかしいとよく語られていた。私はまだ学生の分際であったので、それを左翼思想に対する批判と受け取り、中島牧師をわからずやと思ったものだが、今になってよくわかる。よくない仕事の中でも仕事を間違わないこと。しかし、自給800円などの連続作業の中では間違うも間違わないもなく、ただ、孤独な機械として自分が使われていく、、、そういう現状が多くなっている。大きな船は沈み始めている。やはりここは小さくとも自分からの社会に対するアプローチを開始する計画を立て、段々と実行していく段階に至ったのではないだろうか。色々な集会のアイデア、色々な集会の原案など、これからことあるごとに語っていきたいと思っています。
■ 限界の9月 2011年09月05日(月)
政治的にもまた財政的にも事業的にも、そして軍事的にも、それぞれがなんらかの限界を迎える時期が9月である。期末的な時期であり、苦し紛れになんらかの破れかぶれ的な行動が選択される危険がある時期。911もそう言えば、9月でした。放射能の問題もこれまでさも大したことない風に装って来ているが、そろそろ限界感が出てくるのではないか。個人が線量を計るケースが多くなるにつれて、大したことないなんて言えなくなるのが9月以降か。各国での財政的な限界感にもそろそろ打ち止め感が出てくる。やっぱりサブプライムは何も終えてなどなかった、、、と近々にも暴露があるだろう。企業的にも、日本では外食産業などの極端が落ち込みの我慢の限界がそろそろ出てくる。一挙に音を上げだす可能性もあり、そうなると雇用に深い影。収穫の秋になれば、そこら中で放射能検出騒ぎか。マスコミへの不信が広がれば、広告業界も音をあげる。9月ごろに限界感を迎えるのは日本だけではないので、なんらかの目くらましが必要になってくるだろう。その意味で9月は注意がいると思う。限界感は中盤以降だろうから、三連休前の22日などは人為的な大事件を仕掛ける最後の時となるはずなので、要注意。これまでのものがある程度壊れない限りは良いものも生まれないので、仕方ない面はある。一見困ったように見える出来事も、その裏には、必ずおおきな未来の種がかくされている。世の中にひとつとして、本当は悲劇というものはないのかもしれない。とはいえ、もう悲劇的なものを通さずに時代が変わって行かなければいけないと思う。もうさんざん人類は悲劇を負ってきているのだから。人類がもう悲劇的なものは不要だと、はっきり拒否すればいい。仕方ない戦争も不要、仕方ない犠牲も不要、仕方ない貧乏も、仕方ないウソもダメ。仕方ない消費税も仕方ない軍事費もすべてウソ。もっているものを一度神に返せば、この世に不足しているものなど何一つなくなる。金もない、地位もない、何もない、、という人は、命を神にささげれば、ああだこうだと心配しなくても生きられるようになる。神に預けてしまえば、きっと悪くはしないだろう。銀行や証券会社や会社や組織や悪魔に命と体を預けてしまうから苦しくなる。一度お取り上げしたつもりで、神に戻す。すべてを神に返す。そのつもりでいれば、裸で軽くなり、神の知恵がきっと私たちに降りてくる。この世の本当の仕組みはそうなっているのではないか。
明日は炉の中に投げ入れられる道端の花でさえ、あのように美しく着飾っている。ましてあなたがたがそれ以下であることがあろうか。だから何を着、何を食べようかなど、思いわずらうことはない。明日のことは明日自身がわずらうであろう。一日の苦労はその日一日で十分である。
有名な聖書の言葉であるが、一番楽に生きる方法は、神にすべてをゆだねてしまうこと。それは自分の放棄ではない。なぜなら、大きなものにすべてをゆだねると、与えられた命を粗末にすることができなくなる。守られているという安心感の中で、自分の本来の力を発揮できるようになる。結局、人間というのは、不安をベースにしていたら、自分を発見することも活かすこともできなくなるということなのだ。多くの者が自分を大事に大事にしようとして、自分を失い、苦しさを増していく。むしろ神に自分を預け、自分を忘れた者がその本分を果たしていく。この世の思考は転倒しているのだ。それは実体が心の中にあり、外界がその表れであるからにほかならないが、私たちは外界がすべてであるととらえることから、影を追い、影に働きかけ、せっかく実体を持ちながら、影の中で生き続けようとする。そして実体を悪魔にささげてしまい、悲劇から抜け出ようとしない。しかしそれもそろそろ時間切れまじかとなりつつある。壊れていくものに驚かないように。壊れていくものはどうしても壊れていく。自分自身も外界も。壊れれば新たに出てくるものがある。鉢かつぎ姫という話しがあるが、鉢が壊れた中から、本当に輝く、美しい顔のあなたが出てくる。そんなイメージはとても大切。私たちは自分で考えている以上に美しく感動的な存在なのだよ。だから奪われもしたし、不幸にさせられもした。それだけ価値があるんだよ。何としても、お互いに拝み合う会をやりたいのは、そんな気持ちが発端になっている。黙って、ただ、拝み合う、、、会った際に、帰る際に、トランプした後に、、、ご飯食べる前に、後に、、、相手を神と思うことで、自分の神性が芽生えていく。ビワ温灸やまったりした会や拝み合う会など、色々言ってるけど、秋が深まったころからやりますので、参加してください。9月25日はすでに決定していて、広尾のお寺さんで、「人生相談&トランプ大会」の予定です。詳細が決まったらお知らせいたします。
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