つづき

先ほどのブログの続きだが、ちょうど年度末にも当たるので、私の正直な気持ちを書いてみようと思う。
 先のブログでこれからの時代予測を書いたが、本当はこうしたこと自体が古いのである。時代予測は本当は誰にもできない。ひとつの可能性として語れる、というと面白くないが、そこを目指せば確かにそうなるというものである。
 実は時代はもっと本当は進んでいる。あらゆる原理や原則が一定の範囲では有効だがすべて決定的ではない時代に入ったということなのだ。あらゆる原理原則に、もう人間は縛られる必要などない、ということなのだ。
 その中でも特に、私も星読みという、近未来のことを語ってはいるが、こうしたことも、本来は意味がない。未来予測という言葉はすでに死語であり、未来はつくる以外にない、ということであり、運命もない、というのが本当である。あらゆる原理原則はすで死んでいる。方便としてはまだこれからも残るし、有効な面もあるが、本質的に原理原則は不要な時代に入った。イエスはすでに二千年前にこうした境地にあったし、その時代からすでにそうではあったのかもしれないが、私たちは2000年たってからどうにかこうした境地に至ることができたことになる。原理は死んだ。未来予測も何もあったものではなく、未来をどうつくるのも自由な時代なのだ。私が先ほど予測したのは、諸条件から見て、貧乏をうまく生かせれば、こうした時代が作れる、という意味での予測でしかない。しかし、諸条件は重要なので、おそらくそうなると思う、という言い方が本当は正しい。
 ノストラダムス、あらゆる宗教家の予測、聖書予言、ハルマゲドン予言 色々な予言が世界にはあるが、こうした予言も原理であり、私たちを縛っていると思う。さらに多くの価値観がある。これはよくない、悪い、こうしているとこうなってしまう、、、確かに一面ではそうした事柄は事実かもしれないが、本質はもう違うと思う。もっと自由なのだ。自由であって、私たちは一切の原理に縛られる必要はもうない。唯一、未来をどうつくるのか、、、の一点に関心を向ければいい。私たちは未来製造機であり、私たちを縛る一切の原理を恐れることもない。敬意を表することはある意味安全策から必要だとは思うが、内心では一切の原理に縛られる必要のない時代が始まっている。あなたを縛っている、あなたを不自由にさせていた原理や原則は何だったろう。正しい答え探しなどもういらない。未来を作る際にはこれは通っておいた方がいい整理である。