海外から見たら関西も日本

福島から避難した人がタクシーに乗車拒否されたという。乗車拒否したタクシー運転手さんも、関西に行けば被災地から来たひととなる。関西が安全、九州が安全ということもあるだろうが、海外から見れば日本人は放射能を浴びている、、と見られる。昔、エイズ第一号の患者をマスコミが必至になって追いかけたことがあったが、蔓延していくにつれ、まったく意味がなかったことになる。戦死者も最初のうちはニュースになるが大勢出てくるうちにはニュースにもならない。日本の農作物はもうすでにどこの国も受け入れてくれない。それは、私たちが福島を拒否することと同じ。その意識を変えない限りは私たちが差別されていく。日本人がまとまるには、もうどこにも逃げられない、もうこの問題の責任を誰だこうだ、、、と言い合っているうちは自分らも救われなくなる、、という一種の諦観が生じるまでは続く。原発の危機を最初は大したことない風に装う上だったが、ついに隠し押せなくなってきて、最後には逃げ出すことも見えている。そうして上が一掃されたとき、日本人が誰かれの区別ではなく、知恵を絞り合い、これからの問題に対処していくことができるかどうか。今はまだ難しいが準備をしておくべき時だと思う。今はまだ上が強権を持ち、本当に民族存続のためになる活動を邪魔するだろう。なぜなら、そうした危機対応を始めることは、デマであり、そんなことはなく、十分に安全は確保されているという建前を続けなくては、自分らに責任が生じてしまうと彼らは思っている。日本人がどうなるかよりも、自分らのメンツと建前が重要であり、そのためにはウソでもなんでもいい、とにかく体裁をつくろう、、、ということがこれまでの東大的、官僚的なもっとも大切な事柄だったのだろう。テレビなどの原発の説明でも、左のパネルを、右と言ってしまった際には、そういうことだけは馬鹿丁寧に言いなおす。テレビをみていればそんなことはケアレスミスでどうでもいいのに、そういう場面では秀才性を見せる。本質よりも体裁大事で生きてきた人の人生が見えてくる。こうした人がこの世を動かしており、最後まで責任を認めず、自己保身をはかっている間に多くの被害者を生んでいるのだなあ、、と思う。なんだか戦争の時とまったく同じだという気にもなる。確かに似たような人が戦後の日本を導いてきた。しかし彼らをもう悪く言っても仕方ない。本当のことを言う人より、耳に聞こえのよい、冷静に見える、心の冷たい人にリーダーシップを与えたのは私たち日本人なのだから。今更悪く言っても仕方ない。しかし彼らにこの危機、これからの危機を救う力は残念ながら無いと思う。救うことが前提になってないのだから仕方ない。この危機を救うのはもっと他からやってくる者にならざるを得ない。しかしまだ上が居座っている以上はそれは来ない。なので、この危機はさらに進み、上が逃げ出さない限り、おさまらない。それまでは仕方ない、私たちも付き合う以外にないだろう。ただし、準備は始めておきたい。何の準備か、それは生き残る準備となるだろうが、自分が生き残る準備というよりも、縁ある人、目の前にいる人が生き残るようになるための工夫が大切だ。時代が変わるということは、基本原理が変わったということ。自分が生き残ることのみ考えることが、原発であり、今の上の人たちである。私たちも同じところに立ったら危ない危ない。少なくともみんなで力を合わせて、何か行おう、考えよう、アイデアを出し合おう、、という形。それでないと私たち自身が危ない時代になった。自分の生き残りだけ考えてももう救われる時代とは違うと思う。きれいごとではなくて、現実的な考えとしてそれが言える。上はいずれ逃げ出すだろうから、それまで色々と失敗させておけばいい。先の大戦でもおそらく、あまりに軍隊が強くなったため、どうにもならないものを感じたまともな人はいたと思う。もう日本人のためにならない軍隊を無力化させるに戦争が起きたという側面も一面ではあった。今回も同様であろう。しかし犠牲があまりにも大きい。前回の大戦では何人の方が亡くなったか。軍人と民間合わせて400万人とか言われたと思うが、被災者他の死ぬ以上の苦しみを合わせると1000万人は犠牲になったと思う。今回はもっと小さくしなくてはならない。それは私たちの意識と行為にかかっている。とくに意識が大事。仏教でもキリスト教でもなんでもいいが、この時、本当の信仰が輝き出す人も多いと思う。また宗教とは関係ないところで、人間の自然な魂の発露として共に生きること、自然と共に生きる目覚めが発露していくはずだ。素晴らしいことではないか。昔、戦争の映画を見た時、その一場面で、街中では出征兵士を送る会が勇ましく行われる、戦時ムードが高まって行く、、、そんな中で、教会から讃美歌が流れてくる。その讃美歌の歌詞が今でも忘れられない、、、憎み争い後を絶ちて 愛と平和は四方にあふれ みむねのなるはいつの日か 来たらせ給え 主よみ国を、、、と。もうキリスト者であろうがなかろうが、思いはひとつになっていく。悪が人を苦しめる一方で、人は目覚めていく。これが凄い時代でなくて何だろう。