どうしてくれるの、、

あとになって、一体どうしてくれるの、、と思うことは多いが、口蹄疫も同様である。日本を除くほとんどの国では、今後、口蹄疫が発生しても家畜を殺さないらしい。理由は殺しても感染力が高いので蔓延を止めることはできないし、さらに言えば放っておいても、治るから。という理由。九州ではすでに大勢の牛豚が殺されてしまった。どうしてくれるの、、、である。口蹄疫は治る病気なのだ。そう、放っておいても。私も最初からそう思っていたが、一度病気にかかるともう肉が細ってダメ、、、とか言っていた。そんな馬鹿な、、、と思ったが、やっぱりだった。人間だって病気のあとは痩せたりするが、その後はかえって元気になる。牛や豚だって同じだと思うのだが。全頭殺処分というのは、なんだかおかしな気持ちを抱いた。しかもかかってもいない牛まで殺すというのは、なんだか、病的でさえあった。放っておけば、全頭が確かにかかるかもしれないが、死ぬのは一部の子牛程度で、あとは治り、その後は一切、口蹄疫にはかからない。免疫ができるためである。今回の処置はあまりにおかしい。問題あるものはすべて殺す、、、問題が生じそうな場合はすべて殺す、、、人は動物にやったことは、いずれ人間にも同様に考えるかもしれない。問題を隠す、問題を敵視する、、こういうやりかたで的を得たものをこれまでに見たことがない。この世に起こっているものは、そのほとんどが自然な災害のように見えて、実は人災である。上に立つ人の無慈悲、無感動、人間性喪失、、それがもたらす人災で人類はいま苦しんでいる。戦争についても、そろそろみんなも自分の頭で考えることだ。戦争に正しい理由もへったくれもない。すべてウソである。戦争が回避できないことなどない。起こそうとする人に負けない限り。それには、個人個人がおかしいと思うことが早道である。
 確かに戦争は経済を勃興させ、利益を生むことは確かである。しかしその犠牲にされる方はたまったものではない。誰が、自分の子供、愛する者を殺してまで豊かになりたいなどと思うだろう。外部の人ならそれでもいいというのだろうか。
 戦争は、ついさっき、そこで楽しそうに遊んでいたあどけない子供を、頭を八つ裂きにし、腕を吹き飛ばして枝にぶらさげ、足を引きちぎって路肩に放り出す、、、ここまでするものに、正しい理由などない。そんなことをするぐらいなら、人類が仲良くみんなで死んでいくほうがまだ正しい。自分の子供がそうされるなら、誰だって豊かさなど求めない。また、豊かさと云うのは、そうしたものを通さなければ達成されないものとも違う。それは誤解である。人類を減らさなくたって、豊かに生きていく道は色々ある。それには、夢の技術や発明や発見を人類の手に戻すことによってだが、それをすると、特権がなくなるため、どうしても悲惨な形で一部が豊かになる道を選んでしまう。はっきり言って、だから、99パーセントの人はだまされていることになる。人類がみんなで豊かになる道はおおいにあるのだ。一部のみが異様なほど豊かになり、他のほとんどが貧しい世界、、、という形での豊かさを求めるので、こうした悲惨が必要になってくる。要するに神経症的問題なのだ。心がゆがむと、自分だけが豊かになるのではダメで、他の人が貧しい、、、という形を求める。愛情に問題を抱えて人も同じで、自分だけが持てることが大事で、それには、他の人がもてないことが重要になる。自己実現的であれば本来は、自分が豊かであるように他の人も豊かでありますように、、、となる。自分に愛する人が与えられたように、他の人にも愛する人が与えられますように、、、となる。それができないのは、神経症であるからだ。現代は神経症を理解しなければ世界の実態を理解することはできない。心がわからない経済学者には、経済がわからなくなっている。心がわからない医者には、人間の健康がわからない。心がわからない経営者には、金の流れがもうわからなくなる。どのような大企業でも例外ではない。システムを得て、その流れに乗ってまだ儲けられはするだろうが、そのシステムを構築したはずの土台が動き出している。ある日突然、システム不能が襲うことになる。その際、心がわからなければ平社員と同じ働きしかできなくなる。意識の低い平社員に何千億以上の判断をゆだねても先は見えている。なので、大企業もいずれジエンドとなる。そんなに先のことでもない。それがいやなら、本気で自分の頭で考えることだ。まっさきに考えることは、目の前でさっきまで楽しそうに笑っていた子供や少女や愛する人の、腕がもぎれ、足が飛び散り、目がくりぬかれ、内臓が飛び散っていることを、心底、おかしいと思うことだ。これまでのことをして、人類が欲しがるものなど何一つもない、、、と、はっきりと気付くことである。そうしないと、色々な理由をつけて、そうした悲惨な出来事を正当化され、戦争を起こされていく。そういう馬鹿なことを、はっきり馬鹿なことだと認識することである。