夏本番

去る7月25日の星と森国際短歌大会には大勢の方々においでいただき、ありがとうございました。ブログを見ていらした方が多かったので、とくにお礼申し上げます。また、ほかの方のhpでもこのブログをお取り上げてくださり、お礼申し上げます。おかげさまでなんとか無事に終了いたしました。ただいらした皆様にほとんどお声をかけることができず申し訳ありませんでした。感想などお尋ねしたかったのですが、残念です。今年の披講は、どちらかと言うと音がおとなしいタイプのものとなり、キンキンしてくる倍音はあまり感じられませんでしたが、しっとりまとまった印象があったと思います。大賞歌が挽歌であったのでこれでよかったと思います。挽歌は人が亡くなった際に歌う歌ですが、和歌では挽歌と相聞歌という恋の歌をもっとも重視します。人間にとっての一番のプレゼントは、言葉のプレゼントです。あたたかな言葉、思いのこもった言葉、、、それがいかに多くの人を育て、励まし、生きる力を与えてきたことでしょう。その中でも、思いがあまってついに歌となって表れるのが最大の贈り物であると私は思うのですが、さらにその中でも、恋と死という、特別な情緒を歌にしたものが最高のプレゼンであり、それが相聞歌と挽歌なのです。今回は大賞が挽歌、そして副賞が相聞歌でした。日本人に生まれた以上、恋したときと死にのぞんだ際には、歌をつくりたいもの。すでに昔の経験でもそれを思い出して相聞歌をつくることはできるわけで、そのことにより、自分の人生の意味を再発見できるというのが、和歌のすごさでもあります。大会では主催者として、毎回歌をつくらなければならないのですが、私がつくったものの中にも相聞歌と挽歌に近いものがあります。

色あせし引き出し奥の夏服に過ぎにし恋のいぶき残れり

限りある命と思えばこの時をささぐべきものいずこにありや

と、歌ったことがありました。今年は歌題が「逢ふ」でしたので、

盆の夜半流星五つほど数へ休みてわれは亡き母に逢ふ

と歌わせてもらった。かなり下手ですが。

歌の面白いところは、うそがつけないところだ。うそをもちろんつくことはできるが、大体はばれる。現代人はうそと本当の境目がわからない生き方をしているので、歌がなかなか作れないのかもしれない。たとえば、自由の少ないかつての共産圏のような国では、人は芝居をして生きなければいけなくなる。だからよい歌ができなくなる。しかし考えてみれば、現代日本も同じようなものかもしれない。本当に自分の目で見、自分の頭で考えているとは限らない。少なからず、わかった振りをしたり芝居をしている。芝居ないし振り振り国家だ。政治家など本当はどんなにいんちきなことが国で、また世界で起きているか知っている人も多いはずだが、そんなことはおくびにも出さない。芝居や振りをしていくことが仕事なのだろう。マスコミも同様。コマーシャルも同様。学校のクラス内でも、うそがまかり通るようなムードももしかしたらあるのかもしれない。まして会社組織などは芝居と振りそのもの。。だから、恋をしたとき、死に関係したとき、、、それくらいは本音を出さなくては自分がこの世に生きた意味、存在した意味がなくなっていく。悲しいことではないか。911などのいんちきなども、みんないんちきと知ってていえないのだから、芝居時代である。そんなことで、子供に夢を描けとか、正直になれなど、誰が言えるのか。うそも方便である程度は仕方ないかしれないが、人生がうそと芝居に力点が置かれていくとしだいに生命力と力を失っていく。思いのこもった言葉、思いあまってついに歌になってしまった言葉、、、それが人の生きる意味を再生させていくのだから、最後に歌の神様がお出ましにならない限り、本当のすばらしい世は訪れないと私は思っている。一日が終えていくとき、今日一日の自分を歌にしたり、文字通り歌って終えていく、、、、そんなことで、世界に平和が訪れる。決して難しいことではないのだ。偽りのない言葉、振りだけで終えることのない日々、そうするだけで世界は変わります。宗教もいらない、神もいらない、ましてイデオロギーなどいらない。そうしたものは、悪人が利用するために必要だったということ。平和という言葉も戦争を起こすために必要な振りでありました、、、ね。