歌会文化
このところ出張続き。きょうは東京に戻って4月の歌会の企画についてミーティング。ほぼ決まってあとは企画を詰めることに。歌会というと、どの短歌結社でも目で短歌を見て、せいぜい小さな声で何回か読む程度のことしかやらない。なんだか、、、という気持ちに私などはなってしまうが、和歌でも短歌でも実際に歌わなくては、、、との思いである。歌ってみると目で見ただけではわからない良さが出てくるケースと、反対に歌ってみると目で文章を見たときにはよいと思ったものの、なんだ、、、と思ってしまうケースがある。理屈の歌か、心の深いところから出た歌かは、実際に歌ってみるとはっきりわかる。
日本語ー和歌ー歌う
この流れが重要で、これによって日本語の特殊性が明解になる。
日本語の特殊性とは、母音と子音が組んでいる発声、また、母音のみでの発声が言葉になっている。どんな音もずっと伸ばしてみると、最後は母音となる。これは英語でも何語でも同じ。だから、意味を伝える合理性からいえば、母音を極力取り払って、子音のみの言葉の方がよい。日本語は母音重視なので、とくに歌では伸ばす場面が多く、意味という観点からは不要だがここに大きな秘密がある。長く伸ばすと母音から倍音や高周波が生じやすくなる。母音はさらに自然音と同じく、日本人は左脳で聞きとる。左脳は言語脳であり、風や小川のせせらぎ、波の音などを、日本人は左脳、すなわち言葉としてとらえる。自然が語りかける言葉があることになる。さらにこの点を伸ばせば、木々と話しをすることも、風に挨拶をおくることも、波の気持ちも理解できるかもしれない、凄い可能性を残す。自然との対話能力は、日本語がもたらした特殊な性能であり、自然を壊してきた文明を逆転させるカギを日本人は脳と言葉の上から持っていることになる。そして母音発声がもたらす倍音、高周波は、見えないものとの連携、協力、和を可能にする。これを確信犯的に理解し、とらえたものが和歌である。なので日本文化の根底には和歌があり、日本らしさはここから始まっている。戦前の大和魂などがどんなにインチキなものであり、西洋列強と同列の考えにあったかがわかる。それは当然負ける運命を持つし、現在の中国もアジアというよりも西洋列強の価値感と同一線上にあるわけで、争えば不利となる。先日も語ったが、日本はこれからは和と、命と健康、、、これだけでやっていくのが有利となる。こうしたことを実際にメッセージとして送るのが、この春にリリースすることになる、私が主演である「母音物語り」のDVDプラスCDである。母音の発生原初のイメージの表現、、これは私が山奥で独り芝居した部分である。そして日本語の特殊性が脳にどういう影響を与えたかを角田教授が語られる。歌の部分はスサノオから西行までの歌を披講する。この部分では、実際に100万ヘルツまで収録した奇跡的なもので、倍音の発声をグラフによって表示した。第6次倍音まで確認できた。これは滅多に見れないレベルである。ユーミンなどの声からも倍音の発声があるが、奏法の違いもあって第6次倍音のレベルは段違いでありそれだけで癒しの声である。こうした秘めたメッセージが閉じ込められた作品となったが、確信犯であり、いずれ時代が認めてくれればうれしい。秘密は言葉にあった、、、歌にあった、、、自然との一体は脳にあった、、和とは、公害を生じない文明とは、、そうしたもののイメージがこの中にある。答えはもちろんひとつなどではないが、いずれ言語と人間の関係、日本語の特殊性とその働き、、世界平和とはどういうことか、、自然と一体とは、、こうしたものが言葉と歌に秘密があるということが、認識される日がきっと来ると思う。なぜ日本がこれほどまでに世界から目の敵にされるのか、、、忌み嫌われるのか、、、日本語と日本文化を生み出す力の特殊性を抜きには理解できないと思う。どれがいいではなく、どのケースには何がいいかがあるものだ。そのさいに日本語は文明の衰退する最後にカギになるという特殊性がある。何が優れているか、、、、ではなく、それぞれの働きを重視していけば素直にそのことが理解できる。