命はシンプルが好き
子供のころ、何かの道具を使って遊ぶよりも、結局は何も持たない遊びが一番面白かった。しかしそれは子供の感性にもよる。常に何か目新しい道具を持って来て注目を浴びる子もいる。今ならさしずめ、任天堂のゲーム機器ということになるのだろうが、昔はそんなにすごいものもなかったし、外で遊ぶことが一般的だった。ホッピングが流行り、フラフープが流行ったりしたが、それらはやっぱり一時的な流行でしかなかった。子供たちは広場や自然の中で、駆け回り、木に登り、あまり道具を使わずに遊ぶことに熱中した。私はとくにそうだった。何か新しい道具が来ると、みな一時的に夢中になるが、そういうムードに何となくあぶないものをなぜか感じた。また、目新しいものを持ってくる子供はなぜか決まってあまりみんなの信頼を深いところでは得てない子どもが多かった気がする。しかし時代は道具を持つ子供がリードする時代にだんだんと変わっていった。社会も国もそうである。目新しい方式、目新しい機械、技術革新といえば聞こえがいいが、人も会社もそうしたものに対する度重なる出費で結局は豊かになれずに文明は進んだ。道具を使って遊ぶとき、その道具を持っている子供たちしか遊べない。全員で何かをやる楽しさではなくなっていく。遊びが個人的になっていったが、パソコンにしろゲームにしろ、現代ではそれが当たり前となった。そのため、全員で遊ぶ楽しさ、、、というものがすたれた。今も子供たちは全員で遊ぶ面白さがあまり分かってないかもしれない。実はこれこそがもっとも高度で面白い遊びなのだが、それが維持できなくなってしまった。リーダーが目新しい道具好きだとどうしても全員での遊びができない方向に行ってしまう。戦後、白人は目新しい道具をたくさんもって日本にやってくる。そして集団は別れ、地域性は分断され、人の生き方は別個となり、なのにやることはみんな同じになった。下手なサッカーと同じで、ひとつのボールを全員が追いかけてしまう。それでは大勢で遊ぶ面白さはわからなくなる。
結局何が言いたいのかというと、命は実はシンプルなものの方が好きだし、あっているということだ。登山をとっても、フル装備の登山と、マタギの登山とではその方向があまりに異なる。一方は道具だらけ。一方はシンプルな方向。私は個人的にはマタギの登山の方が本質に近いと思う。現代人は道具に埋もれて命の居場所を忘れた気がする。命に直結しない食べ物、住居、服装、仕事、人間関係、、、要するにガラクタの中で人は疲れている。もう勝ち組も負け組もない。勝ち組と言われる人でも、自分の命と直結しているものが少なければ、何も面白くなくなるだろう。反対に、負け組と言われる立場でも、これからの社会の混乱を思えば、そんなものは問題ではない。その人自身が命につながって生きているかどうか、、、そのことだけが人生の成功失敗を分けていく。金や持ち物でそういうものが本気で決まると思っていたような時代や人は、あまりに人が良すぎるというか単純すぎであったのだ。今はみんな裸一貫の時代と思った方がいい。今、何億持っている人も、数年後にはどうなっているかわからない。実際、北朝鮮では突然のデノミで金持ちが一掃されてしまった。アメリカでそれが起こらないと誰が断言できよう。そして日本も似たような立場なのではないか。ひふみ神示では日本は金ゴールドでやられる、、、と出ているが、おそらくそんなことがいずれ起こるのだろう。と言って、金を持っていれば大丈夫、、、というような単純なものでもないだろう。しかしそうした世界の突然の制度変革による嵐によって、日本が一飲みにされる危機が来ないと、誰が断言できるだろうか。政治家などはその時責任などとってくれるわけもない。自分が逃げ延びることで精いっぱいなのだから。今、発見すべきは、そういうことではなく、命なのだ。自分の預貯金を大事にするのはもちろんだろうが、いつ召し上げになるかわからないようなものに命を託すのもむなしい話。直に命そのものとつながることを考える時に至ったと思う。あなたの命は何によって元気になり、どういう生き方で輝くか、、それより何より、あなたは本当に自分の命とつながっているか、、、まだその意味では時間はあるだろうから、関心をそこに集中させる。欲とつながるよりも命と、儲けとつながるよりも命と、見栄とつながるよりも命と。命あっての時代となる。