ひとり勝ち以降の世界
今回のサブプライム問題以降、経済と金融はどうなっているかは、マスコミ通しでは何もわからないと思うが、一言でいえば、ひとり勝ちした者がいると思う。多くの希望主義者の間では、人間の業によって欲の深いものが消えた、、、という理解だが、それは違うと思う。本当はひとり勝ちしたものがいるのだろう。サブプライム以降、一度は株価などもリバウンドし、その後また第二波がやってくると、私も思っていた。それは今でも同じだが、その期間がかなり長いし、戻りのレベルもかなり高い。もう一度同じやり方のバブルを作っている。作れるということは、政府も総動員での第二回バブルづくりが行われたということ。要するに、今度壊す時は、政府もすべて一挙に壊すよ、、、という形になっている。だからこれはそれを演出できた者の独り勝ちパターンなのだ。近代国家の存在すらチャラとして、国家すらも負けてしまう相場。だからこそ、銀行も企業も欲しいところはつぶさずに残せるやり方で、巧みに所有権が変化していっていることだろう。オバマがノーベル平和賞をもらったが、これでアメリカの破れかぶれの戦争が起こせなくなるしで、劣勢を挽回しようとする勢力への暗黙の脅しにもつながる。戦争も起こせない、、、、これはよいことである。日本でも民主党政権ができたということは、こうした世界の本当の流れにやはり即しているからに違いない。すでに大本では独り勝ちの勢力による世界改造が行われつつあるのだ。独り勝ちだから、もう戦争もやる必要はない。あったとしてももっとほかの古典的な理由の戦争なのだと思う。では独り勝ち以降の世界はどうなるか、、、が焦点になると思う。当然、アメリカやイギリスの時代ではなくなる。G7がわずか数時間で終えてしまったことからも、もう何の力もなく、それはG20にすり替わっていることがわかる。わかってないふりをしているのはマスコミだけで、いずれマスコミは恥をかくことになる。ではG20を使った新たな経済の時代なのか、、、というと、それも違うような気がする。ここは文化の時代になると思う。要するにこれまでの反省として、時代は新たな方向に進みだす。上の判断かどうかはわからないが、強制収容所になるよりはずっとましだ。文化の時代になると個は生き生きとしてくる。江戸時代の浮世絵などに出てくる歌舞伎見物をしている民衆の顔を見ると、徳川に抑圧されている顔などしていないことがわかる。それは百花繚乱の文化が支えている自由な顔つき。絶対的な勝者はいるものの、文化中心の時代では競争が人を貧しくさせることはなく、個は輝きを増す。それでいいではないか、と私なんかは思ってしまう。まあ、色々な考えはあるとは思うが、強い者はいつの時代にもいるわけで、要はそれとの距離と関係の質がどうなるかだ。まず先にイデオロギーの力がなくなり、次に支配の強制力よりも文化的な喜びの方が優位に立つようになる。それははじめは民衆をしばりつけるうまい方法としての面が意識されるかもしれないが、その影響はいづれ上にまでおよび、高度の文化の喜びに上が参ってしまう、そういう段階に必ず進む。中世でも文化芸術の最大の擁護者はやはり貴族や王様だったように。民衆からの文化的な働きかけがこれから平和世界をつくる重要なものになってくると思う。コンピュータ人間でも、冷たい秀才タイプでも、がめつい利益追求型でもない、踊りや歌や音楽や芝居やものつくりや、金にならないものが好きな人の活動が面白い力になっていく。もう一方の面では、優しいオタクの天才が町工場レベルでの技術革新と新発明、発見を行うことでの、基礎的な生き方の保全と安心を供出してくれることで、生活のレベルもきちんと固まるだろう。そうしたものを浸透させるきっかけや母体は、やはり時代的に見て女性のグループになる。変化の時代にはいつも男はだらしない。昔のやり方にしがみつくのが男の弱さなので、今回もそれが出てくると思う。そういう男をしり目に、女は新しい生き方をどんどん実践していくのがいいと思う。まずは、金から自由になるために、生活コストを月三万円程度で暮らせるようにしていく。それにはやはりシェアする生活。独りが8万円もするマンションに暮らすよりも、4人でシェアしあう。何人でももちろんいいのだが、とにかくシェアしあう。服も食事も当番制にして、、、などとしていけば、月3万円生活は実現できると思う。病気になっても仲間がいるので安心。お金がなくなっても、仲間がいるのである程度は甘えられる、、、悩みがあっても聞き手がいる、、、夜は楽しくみんなで何かできる、、、男や恋人がいる人には自由な場所などがないのでなんだか、、、という面もあるかもしれないが、男だって順番にその中に入れてあげればいい。きょうは誰それの恋人が来るよ、、、と、その仲間に入れてあげればいい、、まあ、これにはどうしてもその人の好き嫌いがあるので自由にやればいいが、要は恋人がいるので女性同士でシェアしあえない、、ということはないという意味で語っているだけ。中には恋人共有なんという新スタイルの自由な関係もできると思うし、それは個々の個性、変態度など、自由であってよい。要するになぜ暴力団組織などが残るのかも同様で、仲間で暮らす、、というシェアの自然さが意外に大きな要素であり、助け合う生活というのは、人間存在の方法として極めて自然なのだと思う。個人レベルの確立が重要視された近代は反対に仲間意識を失い、個々の生活はあまりに隔絶されてしまった。お隣にお醤油を借りに行くような感覚はもう今の時代にはない。このストレスは実は大きかったと思う。お金への関心の集中、仕事への関心の集中、、、これらは、助け合い消失と反比例して増大していったことだろう。女性が魅力的で自然にそったシェアの形態を色々と作っていく中で、大不況、大恐慌にもびくともしない生き方を提示できるようになっていく。そしてやさしく、いらっしゃいよ、ここがあいているよ、、、と男性を招き入れる。そんな感じで新しい地球号は出発していくのではないか。女性は早く時代のこれまでの力の喪失に気付き、自分らでシェアしあう生活を模索する中から、その方が自然で楽しく、面白いということを示してくれたら、素晴らしい気がする。おそらくそんな先ではなくて、こうしたことが実際に起きてくるだろう。すでに部屋のシェアなどは多くのところで始まっているという。当然のことだ。それを不自由ではなく、かえって楽しくしていくことが流れを早めるポイント。貧しい芸術家が集うようなアパルトマンには、昔から恋があり、笑いがあり、涙があり、人生があったのだ。