多くのものにあきている

コンビニのおにぎり、、、まずくはないが、仕方ないから買っている、、、チェーン店の食べ物とサービス、、まあ、それなりに安いし無難だが、他にないから行くだけ、、、食事も服も住居もテレビも遊びも、そして仕事も、本当は前向きでやっているのではなく、もう、ほとんどのものに、私たちは飽きている。朝起きて、時間に追われて、コンビニでおにぎりを買って、自販機でお茶、いつもの電車、いつもの新聞、いつもの仕事、、、なんだか、本当は全部にあきている。よくここまでやってくれたと思う。これは、飼われている生活なのだ。自由など本当はない。選択肢があるように見えるものの、カレーにするか牛丼にするか、、、そんな程度の選択肢では、窮屈になってくる。しかもその選択肢も一度の食事の金額がかつては、たまには1000円のランチもあったが、今は500円でも高いと思うケースが多い。だんだんと包囲されてきている圧迫感。よくもここまで人の暮らしをつまらないものに変えてくれた。便利でいいのは、私たちではなくて、会社や上位者の都合にすぎないのだ。待たないですぐに乗れる満員電車は、決して私たちの都合のためではない。それは高速回転のベルトコンベア。昔のサラリーマンの地方出張は完全に息抜きができたもの。今は便利になったというのは上の都合で、行かされる人は酷使される。こうした社会のリズムにおとなしく乗っていると、まず、芸術性が失われていく。だんだんと動物に近づいていく。次に思考力を失っていく。都合のよい人間に育ってしまう。しかし魂での飢えと飢餓感は蓄積される。そしてそのアンバランスの不安定さが、我々を食い殺す絶対的なイメージをある日、ひょんなことから招きいれてしまう。高級品購入で身動きとれない、、、ローン破産、、間違った恋を理想の恋と思いこみ全存在をそこに賭けてしまう、、、あんちょこな自立と独立による窮地、、、飲み会における上司との決定的な喧嘩。これまではむかったことが一度もないような人なのに、、、家庭不和、、、熟年離婚、、、冷たい子供、、、幸福の顔のパターンは意外に少ないが、不幸の顔はバラエティに富んでいる。人間は感動のない日常を送ってはいけないのだ。今、私たちの社会に不足しているのは、芸術化である。美しいまち、感動的な仕事のシステム、感動的な仕事の内容、自分の誇りが高まる家、それは贅沢な家とはまったく違う。まずはじめは、住む場所の芸術化である。そこからスタートすると、すべてがいい方向に向かい出す。能率的、効率的、経済的、、、でやると、結局は大損するので、芸術化したほうが結果的に潤う。山沢損である。易の卦のひとつだが、損して得取る。損することを喜ぶ。すると、周囲を感動させる。山沢損の補完関係は、恋の卦である。沢山感だが、喜んで損すると、感動してくれる人が現れ、恋が成就する。素晴らしい恋人が現れて感動的な恋が成就できるなら、損などなんともないだろう。効率化、能率化、経済効果、、、などにさんざんだまされ続けてきた結果がこの時代だ。若者は恋すら仕事に奪われてしまっているではないか。無残なのだ。貪欲だからだまされたとも言える。誰もが名もない芸術化を自身に負い、感動的な恋を、感動的な金持ちに、感動的な人生を得てもらいたいと思う。カギは自身の芸術化にあるわけで、簡単に言うと、そのための損を喜ぶことに尽きる。労力の損、、金の損、、、、時間の損、、、それを喜んでやってみる。すると仕事の成績があがる、、、評判が上がる、、、異性が寄ってくる、、、ダメになるにはダメになる理由があり、幸福になるには幸福になる理由がある。