健康法

世の中には色々な健康法がある。私も昔から色々と凝る方だった。そして思ったのは、本当の健康法は、あらゆる健康法をやらないことだと気がついた。なんでも大体やり始めの頃はよく効くので、これは素晴らしい、、、と思う。しかし本気になって続けていくうちに、かえって良くない結果が起きてくる。健康法ではなかったが、おなかの中で繊維質が膨れて満腹感が出てくる、そのため、ダイエット効果があるので、自由にたべてよい、、、というので本気で食べたこともあるが、胃袋が大きくなってしまった。そりゃそうだろう。繊維質でおなかを膨らませた上にたくさん食べたのだから。そのダイエット法をやめたあと、しばらくは空腹に参った。まったく逆効果だった。ダイエット法や健康法は、効かないどころか、その多くが逆効果となるところがすごい。あらゆる健康法は不足意識から来る。オーケー、すべては整っている、、、という安心感とは異なる。自分自身になんらかの不足感をいだいていると、どうしても健康法やメッソッドにこだわりやすくなる。そして結果は制反対。人は何事も不足から出発しないほうがうまくいく。裸で生まれてくるのだから、どうにかなるようになっている。その意識は神に自分は守られる、、という安心感でもあり、任せられた神は悪い気はしない。どれもかわいい自分の子供である。安心して任せてくる子供を困らせるわけにはいかなくなる。しかし、中には、不足感を胸いっぱい、体いっぱいにたたえるこどももいる。親が持ってきた餌もどこかに隠してあとで食べるような不審感丸出し。これでは神も、ああそうですか、、自分で対処したいんですね、、、と言って突き放したくもないけど相手の思いを尊重する手前、構わなくなる。だから人生はどうしてもきつくなる。考えて見れば、底なしの貪欲さによって世界に君臨する大企業などは、こうした不足感からでている。常に自分が主導権を持って狡猾にでも自分に有利な絵を常に作り続けようとする。そこには神の守りは少なくなるので、人間を幸福にしないシステムになりやすくなる。そして貪欲さのためにそのよくの重みによって沈んでいく。そういうことが何十年、何百年に一度起こる。今はまさにその時。パラダイムは変化したが、人の意識はそれよりも数年は遅れる。だからいまのこの時点で、まだお受験だとか、出世だとか、に本気でこだわって人生のエネルギーのすべてをそこに注ぎこもうとしているような人は、もっとも損するはずだ。沈んでいくものに全財産を賭けることになるので、損すると思う。しかしその人たちには、本当の仲間や密な人間関係や、豊かな家族関係や、損得抜きで得られる喜びの重視、、、と言っても、ピンとこないと思う。結局はカルマにひかれるようにして私たちは自分の人生を生きていくことになる。
健康法にはまっている人には、今やっている健康法は信仰と同じだ。不足を埋めようとする試みは信仰になりやすい。欲張りはそこそこに、、、という楽しみを失なう。しかし人生の豊かさを得るためには、あらゆるバランスやなんでもそこそこにという感覚が大切になってくる。いつでも私たちは答えがひとつではない世界に生きているからだ。ひとつの答えを得ようとすれば、答えにこちらの人生を合わせなくてはならなくなる。儒教のつまらなさはそういうところにあるのかもしれない。自分が何者か私たちはわからなくてもいいのだと思う。それは自分が決めることではないのだから。そういう受用の意識になると、現在の自分を取り巻く一定条件の中で、私は何者です、、、という立場が逆に取りやすくなってくる。そうなると人生は形の上では必ず発展する。大本の自分はわからなくてもいいが、外的な部分での自分の立場ははっきりさせる、、、この意識が備わったら、人生においてまず私たちは悩むことは少なくなる。おかしな人というのは、大本の自分のイメージをおそらく幻想によって決めつけ、現実のステージでの自分の立場を曖昧にしたがる傾向がある。
 関係ないですが、有名人アメブロの許可が降りたので、来週あたりからそちらからもアクセスできるようになると思います。