避難場所
精神が危機に瀕するような状況が続くと、人はトイレが近くなる。何度もトイレに席を立つときは、自分ひとりの避難場所を求めている、、ということが多い。会社にいることにストレスを抱くOLはよくトイレに行く、、、ということは起きやすいと思う。精神的に追い詰めらたOLに限らず、現代人には避難場所が必要になっているのではないか。自給いくら、、の世界は分断された世界において自分を押し殺す構造を持っている。そうした仕事が合理的だと捉える上層部と、働く人との間に深い溝ができてきた。占星術的にはこれも太陽が月を隠す状態と似ている。太陽は明るく大きいので、月を隠してしまう。しかし月が太陽を隠す日食が何十年に一度か、その地に訪れる。目に見えない、霊的世界、本能の世界が、分断され効率化された世界を打ち砕くときとなる。個の生命の輝きよりも、全体の生命の流れの中での自分に目覚めたくなるとき。それが迫っている。そうした月が表す非合理的な無意識的な本能的な自分と出会える場所は、現代では、わずかにトイレだけとなっている会社もあるかもしれない。避難場所がどこにもなかった人にはつらい時代だったと思う。会社にはもちろん、家にも自分の居場所が確保できなかった人は、通勤の孤独の中で、トイレの中で、無意識の自分との対面、無意識の自分との融合を図ってきたかもしれない。現代人が自然を失った意味あいは、大きい。分断された約束の世界、自然から乖離した人工の世界、、、そこで過去の感情の集積を持つ人間が生きていくこと自体に本当は無理があった。どうしても避難場所が必要だった。私は昔から家がなぜかたくさんあったが、それは無意識的に自分の居場所、避難場所としてそういうものを機能させていたからかもしれない。主婦の居場所はまな板の前に立つという人もいると思う。まな板の前で包丁を扱っているときは、まぎれもなく自分の場所であり、それは守られている避難場所ともなっているだろう。そんな流暢なもんではないよ、、と、家族の多い主婦はおもうかもしれないけど。台所は聖域と呼ばれることがあるので、他の人は入り込んではいけない、、特別な場所としては機能しているはずだ。主婦は孤独を感じた時、孤独を必要とするとき、無意識にまな板の前に立って包丁を扱うのではないだろうか。立派な避難場所であると思う。避難場所を失ってしまった文明にこれから反省のときが訪れようとしている。一部の太陽の意思が究極にまで拡大し、その支配の構造が隅々にまで行きわたり、大勢の人が自然から離されて歯車になったそのピークに起こる皆既日食。夜の闇の中に閉じ込められていた多くのものが徐々に徐々に復活を始め出す。植物を成長させる神秘の力は人間にも注がれているはずで、どこかにあるかもしれぬ大きなゆりかごを求めて現代人の魂の旅が始まるのかもしれない。