得恋の歌

どこの国でも詩歌の真髄は恋の歌、そして死をいたむ歌だ。日本の和歌でもそれは同じで、恋の歌と、挽歌といわれる死にまつわる歌が和歌の真髄となる。誰でも、恋をしたときと、死に際してはせめて和歌を詠む、、、というのが日本のスタイルというわけだ。昨晩は披講学集会があったが、青柳先生がおっしゃるに、恋の歌は多いがほとんどは失恋の歌ばかりで、恋を得た歌は非常に少ない、、、という。得恋の歌、、とでもいうのだろうか。それが少ないらしい。しかし一番最初の和歌といわれるスサノオの歌は妻を得た喜びの得恋歌である。
 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を
 という歌。昨年行ったはじめての公演で朗読と披講をしたが、和歌のスタートは恋を得た歌だった。失恋の歌は多いので、ぜひとも、恋を得たときにぜひ和歌を作ってみるといいかもしれない。とくに若い人に進めたい気持ち。結婚に際してその喜びを和歌にしたら、必ず来るであろう結婚生活の危機をかなり防げるかもしれない。日々の生活に手ごたえを持たせる方法はいろいろあると思うが、その最大のものは、自分の生活に神話としての側面を持たせることである。結婚のスタートに和歌をつくれば、それは神話として影響力を発揮する。非日常の喜びが表現されたとき、自分の人生が神話となっていく道をつくる。誕生日の意味も私たちは実は神話の世界を生きていることの手ごたえを自覚させる。このように何事もはじめと終わりが大切なのだ。ここにしっかり神話となる道を作っておくと、日常の困難に対する強さが現れる。国でもそれは同じで、出発の神話が心もとないと途中もどうしても心もとなくなる。神話はだましでも偽りでも迷信でもない。もともと、現実が神秘であり、現実が正しく神話なのである。ただ私たちは日常の積み重ねにおいて、繰り返しにおいて、だんだんとそのことをつい忘れてしまうからにほかならない。自殺したくなったとき、自分に意味が感じられなくなったとき、自分が嫌いになってしまったとき、私たちは自分の神話の側面を忘れているだけである。神話などない、平凡で何のとりえもないのが自分だ、、、と、かたくなに思うこともあると思うが、それは間違っている。こちらが生んでくれと頼んだのでもなく両親の要請、神の要請によって私たちは生まれてきた。それは十分なドラマの始まりであり、まさに神話から私たちの人生はスタートしている。死も同様。あちらからお迎えが来る。こちらから願うわけでも申し込むわけでもない。運命としてあちらからやってきてくれる。だからこれも神話である。誰の人生もだから劇的なのだ。すごいのだ。不運の連続で何ひとつよくない人生と嘆く人もいるかもしれない。しかしそれを神話として捕らえたら、よくできた神話ともなる。ただその役を受け入れてこなす意思があるかないかの違いだけ。私たちは色々な役柄をそれぞれ背負っているが、みんなで協力して、今の時代に、この地球で、それぞれの神芝居を演じているとも言える。変えられる部分は何でも変えたらいい。しかし変えられない部分は仕方ない。それを運命というのなら、そこにこそあなたの神話が息づいている。