最低条件が大事

世の中に大切なものは多いとはおもうが、本当に大切なものは最低条件がきちんとしているかどうかである。
たとえば、国は今回のインフル騒動などでも、国民の命を守る、、、と言ってくれる。ありがたい話しであるが、では、戦争などは金輪際やめてもらいたい。国民の財と命を守る、、、というのは最低条件でなくてなんなのか。どの国家もその最低条件を守ってなどこなかった。どんな人間もその人が成長して一人前になるまでに両親や周囲の多くの力と思いを受けている。そういう個々の大切な人間を赤紙一枚で戦地に送り出し、死んで帰れば最初は英雄、あとはお骨すら戻らない。その戦争がなぜ起きたのかを考えると、そんな難しい理屈はいらないことが段々とわかってきた。要するに金儲けと言ってもよい。そのために多くの人間が死んできた。戦う両方の国に金を貸し、武器を売る、、、そんな勢力がいろいろな国家に影響を与えてきた。戦争がなぜ起こるのか、、、という教育的番組を見ると、いわく言い難い難しい問題があるようになっている。よくできた話しで、そうでもしなければ人類は怒り心頭に達してしまうからだ。戦争は最高のお金儲けなんです、、、なんて本当のことを言ってしまったら、絶対にタブーなので、何か高等な理由や難しい問題があり、ついに戦争に至る。だから私たちは平和を祈るとか、平和を愛するとかいうことになる。しかし平和が嫌い人なんて、本当にいるだろうか。いるわけがない。なのに戦争が起こるのはそれを起こす人がいると考えるのが自然であり、それによって利益を得る人がいるからというのが答え。私は子供のころから、平和主義とかいうのがなんとなく胡散臭く思えたが、その直感はやはり当たっていた気がする。戦争の必然性はほとんどない。本当に絶滅したい国や地域があったら、戦争など遠まわしな手を使う必要などない。インフルではないが、強い菌をばらまけばすむ。戦車同士のぶつかりあいや、戦闘機どおしの争いなどは、消費するためであることはもうわかりきったことではないか。なにせ一台もの凄い値段がするのだから、それが何機も壊されていくとなればこんなに儲かるものはない。本気で頭を使えば陰謀や情報戦で相手国を動かせよう。戦争も武器も経済も医学も、要するに支配の道具として使っているにすぎない。法律の抜け穴を作れば結構なことだって意図的にできる。地震など科学的に起こすのは雪崩を起こすことぐらい簡単にできるという話しも本当なのだろう。ストレスがたまっている地域に刺激を与えるだけで起こせる、簡単な理由だ。ストレスを作ることだって可能だろう。天候だって変えられるとなれば、大気になかったストレス状態を作ることだってできるはずだ。そういえば最近の飛行機雲は昔の飛行機雲と違って段々と小さくなるのではなく、だんだんと広がっていく。そんなことってあるのだろうか。何もまいてないのならいいが。決まって風が強くて上空のチリを追いやった次の日の晴れた日などには、こうした広がる飛行機雲が大い。何か変なことをしてなければいいが。上から何かばらまいてもいいかどうかは国防の重要な問題でもあり、規制などないのか不安である。それとも昔の飛行機と今の飛行機とでは何か構造が違って、今の飛行機雲は広がるようになっているのかしら。なんだか不思議である。しかしなんであれ一部の人間があまりに変なことをやるので、いい加減に本当の科学の神様、本当の地球の神様が怒り出していると思う。最後は自然の神様が怒る以外に道はないからきっとそうなる。バベルの塔もそうやって崩壊したのだから。そして最後の最後にお出ましになる神様は歌の神様であると思う。個々を超え、民族を超え、生物の種類を超え、場合によっては宇宙の違いも超えて、ともに和するものこそ音楽である。歌である。最後には歌の神様がお出ましになってお帰りなさいの世を作るというのが、私の歴史観である。昨晩はそんな思いから、例によって豊富な倍音と高周波が飛び出すというお墨付きをいただいた私の声で、いろいろなマントラを試してみた。なみあむだぶ なみあむだぶ、、、なんみょうほうれんげぎょう、、、ひふみ、、、このうち、昨晩はなんみょうほうれんげぎょう、、、になんとなくはまった。一息で3回程度のゆっくり繰り返しから始め、最大、一呼吸で20回のなんみょうほうれんげぎょう、、、を唱える。なんみょうほうれんげぎょうは、リンとした気になり、いろいろなものが耳をすまして聞きに来る印象。その点、なみあむだぶの繰り返しはなんだかひねもすのたり、、の感じで非常に違った意味で高度だと感じた。自分の声が実は乗り物。だれでもそうである。何の乗り物かは、他への働きかけ、いったいの創出、響き愛の乗り物。自分の声を使わない手はない。自分の声で木に働きかける、、、緑と語る、、星に語りかける、、海に、陸に、まだ見ぬあなたへかたりかける、、、声は奇跡を起こす。しかしそれは本当は奇跡ではない。声とはもともとそうしたもの。働きかける声はただし、日常の声よりも、思いを研ぎ澄ました非日常の声がいい。日常の声だと実生活に支障がでるので、他への全体への働きかけには、歌の神様は私たちに非日常の声を与えた。それによって非日常は特別な思いを伝搬できることになった。非日常とは、子供の危機に叫ぶ親の声であり、愛するものとの交合で思わず出てくる声でもあろうし、命を得た際の叫び声でもあり、とにかく非日常というものがあるはず。誰でもその声を持っている。ただしそれはあなたの声でなければならない。あなたの声だから、あなたが他と交わることとなる。声を通して私たちは他と響き合う世界が作れる。そこには消えていく理屈も理由も価値もない。だから本物。仕組みの神様の時代から歌の神様の時代へと変化中。