メリークリスマス
その頃、全世界の人口調査をせよ、との勅令が皇帝アウグスツスから下った。
クリスマスになると聖書のこの一文を思いだす。クリスマスになると教会ではイエスキリストの生涯の様子を誕生から十字架、復活にいたるまでを語り継ぐ。最後は主、イエスよ来りませ、、、というヨハネの黙示録の一文で終える。ローソク、聖書の朗読、そして賛美歌は、私の心の奥にある心理的な背景であり青春時代と完璧にリンクする。私の青春は教会活動そのものだった。そしてキリスト教義に疑問を感じだして私は教会を去ったのだが、今でも賛美歌を歌うことは、私にとっては礼拝そのものであり、私の信仰でもある。もっと言えば歌を歌うことが私の信仰なのである。今は披講に取り組んでいるが、それを歌う姿勢もやはりどこか自分の中の神への祈りとして歌うスタンスになっていると思う。カンツオーネを歌うときも、演歌を歌うときも、きっとそうなのだと思う。普通には歌えない。何かに訴えるように、何かにぶつけるように、何かに救いを求めるようにしか、私は歌うことができない。
イエスの誕生はまさに暗闇に輝く一本のローソクであった。
ドストエフスキーが間違って捉えられて牢獄にいれらられたとき、獄中で聖書を読みふけったという。そして彼はつくづくと言う。イエスほど愛に満ちた人間はいないと。私もそう思う。聖書にあるイエスの活動、言動の一つ一つには深い愛と慈悲が込められている。
イエス 私にどうしてほしいというのか
女 主よ、見えるようになることです
イエス ならばそうなりなさい
こうした一見、変哲もなく見える会話に深い愛がこめられている
イエス まず自分に罪がないと思う者がこの女に石を投げるがいい
イエス どうした、石を投げる者は誰もいないのか。私もお前を罰しない。行きなさい。二度と間違いを犯さないように。
こうして罪を犯した女をイエスは助けた、という箇所
次に、取税人と言って、人々から嫌われていた男がイエスを一目見ようと木の上に上って眺めていた。その時にイエスは取税人に言う。
イエス 今宵はお前の家に泊まろう
捉えられたイエスは十字架につけられる。その際、左右にやはり十字架につけられた犯罪人がいた。一人はイエスをあざ笑うが、もうひとりの犯罪人はイエスに語りかける。
犯罪人 主よ、私は悪いことをしたので十字架にかけられるのは仕方ないのですが、あなたは何も悪いことをしていないのになぜ十字架にかけられるのでしょう。
イエス あなたは今宵、私とともにパラダイスにいるであろう。
なんと暖かな言葉だろうか。イエスはともに十字架に架けられた犯罪人をなぐさめ、その言動によって救われた犯罪人をパラダイスに招くのである。こうして私が解説しても何の感動もないが、イエスの言葉にはそれがある。 あなたは今宵、私とともにパラダイスにいるであろう、、、、と。
イエスが語っていた人の子の時代が訪れようとしている。イエスは歳差現象によるうお座時代に現れ、次の人の子の時代を予言した。人の子の時代、それはみずがめ座時代を差す。イエスが語ったことは2000年後の今、これからの時代のエッセンスでもあった。私たちはこれまでの2000年にわたる信仰の時代を過ぎて、本当の意味での愛の時代を迎えようとしている。キリスト教も他の宗教も、また経済の信仰も科学信仰も金銭信仰も、すべて信仰の時代は過ぎていく。人は信仰によって生かされもしたが狭められもしてきた。すべての絆を、縄目を解き放つのは愛以外にはない。イエスはまさにその鏡を示した人であった。
久しく待ちにし主よとく来りて
御民の縄目を解き放ちたまえ
主よ主よ 御民を救わせたまえや
2008年 メリークリスマス