落ち着きを取り戻す市場
ニューヨークも東京もきょうあたりでだいぶ落ち着きを取り戻しつつある。まだ目先の動きは当然あるだろうが、しばらくはこのまま行くのではないだろうか。しかしあまりに大きく下げたものだから、どうせまた下げるだろうと信用してない人も多い。そのため上げ相場の最初の段階で空売りを入れてしまう動きも多くなる。大恐慌は大きく下げてまた大きく戻す。そうした動きを何年もかけて何回か行い、人々が築き上げた財を根こそぎ奪う仕掛けなのだ。富の偏りはまさに恐慌によってなされてきた。経済とは結局だましの構造をしている。
私がいま求めているものは、もっと違った生き方であり、もっと違った生活の楽しみ。官僚的な貧しい価値観が住宅にも生活にも人間関係にも消費にもあらゆる面に出ているのがいまの日本だが、もっとシンプルで生命リズムに沿うもので、本質的な喜びを感じられるものが必要なのだ。それがないままの生活恐慌はまた戦争以外の選択肢をなくしてしまう危険がある。いま、私は音楽家にある作曲を依頼している。正式な依頼ではないが、いずれそうなると思う。どういう音楽かというと、淡々としたリズムが刻まれるダンスの音楽である。古典的な男女の踊りであり、形体としてはフォークダンスである。男が踊る輪と女が踊る輪が逆回転に回り、一人一人が出会っては去っていくフォークダンス。出会いの際に相手を拝み、去っていく際にも拝んで別れ、また新たな異性と出会う際には拝むことから始まる。異性同士が拝みあいから始まるフォークダンスであり、そこには根源的なセクシャリティが感じられる。美人でもそうでなくても、淡々としたリズムの輪の動きの中で拝みあう男女にはきっと日常の中ではみつからない魅力が出てくるはずだ。こうしたダンスを作って自分自身踊り続けたい、、、というのが動機であった。金曜日や土曜日の番にただ踊り会うだけのサークル、、、そんなイメージが人間の再生につながる予感がある。お化粧をしたからきれいになるのでも、おしゃれをしたから美しくなるのでもなく、背が高いから恰好がいい男というのでもなく、おしゃべりが楽しいからモテル男でもなく、もっとその人が持っている、本質的なもので、まだその人自身が築いていない魅力や波動、気配があるはずなのだ。個性と個性のつながり、個性と個性の許容は、こうした場が必要になるという試みでもある。話さないが見つめあい、目や体で語るフォークダンスは人間の眠っていた生きる魅力をきっと解放し、自分が自分として生まれて生きている充実を頭でない全身で感じさせてくれる、、そういう踊りを作ってみたいと思うのだ。そのための音楽、そして振り付けに、現在取り組んでいる。しかし、できた、できた、、、と言って私が喜んでも誰も来てくれなかったらさびしいので、せめて一度だけはぜひ試してください。会費1000円程度でフリードリンク程度の設定になると思います。時代を動かすあらたな力は、やはり全身から出る本物のものでなくてはならない。幕末にも維新まで持っていった力はええじゃないかという踊りの爆発にあったのだ。決して幕末の師の力ではない。この面からの研究があまりなされてないことは残念。ええじゃないか、、の踊りの国民的エネルギーがなかったら維新までいきつかなかっただろう。ひと握りの人の策謀で歴史が動くわけではない。それすらも人々のエネルギーが起こしたことなのである。ただ残念だったのは、こうした民衆のエネルギーは利用され、私たちの求めるものとは異なる世界を現出させた。幕末明治にわたる薩長の主導権は決して日本人的なものではなかったと思う。こうした流れが現代にまでつながり、色々な問題を生んできて、ついに行き詰った。もう一度、ええじゃないかよりもさらに進んだ、日本人のどう生きたいか、どう進みたいかの肉体表現となる場と試みが必要であり、私も針のほんの一穴にしかすぎないことはわかっているが、新しいええじゃないかで、自分自身の声を聞いてみたいと思っているのだ。私がこう書くだけでも、私なんかよりずっとセンスのよい、力のある若者が、きっとそうだ、、、と思い、もっと凄い、力のある踊りやイメージの解放に進んでいくと思う。そいう嘘でないところからでないと次の時代はつくれないと思う。頭から始めた時代支配は終わり、うごめき、不器用、しかしそれでいて発散したい表現したい何かを若者はきっと持っている。いわく言い難い苦しさ、辛さ、希望、を自身の肉体表現で出すことが命の輝きなのだ。私は期待しないながらもそうした動きが数多くでてくることを信じている。