国家幻想
金融の崩壊は結局銀行や保険会社では手に負えず、最終的には国家が保障する、、という形になった。銀行や保険会社はつぶれにくくなったが、国がその変わりに負債を清算しなくてはならない。はたして、どこの国にそんな力があるのだろうか。残念ながら国にはそんな力はない。ないどころか一番借金が多いのが国である。その国が最後の借金の清算をするというのはおかしな話しで、国民をだますか、お札をすりまくる以外に方法はない。アメリカのように国民におカネがない場合は、世界のあるところから持ってくるか、やはりおカネを刷りまくるか、または制度を劇的に変更する以外ない。日本の場合は国民の財産があるので、それをだまし取るという形で乗り切ることになるだろう。
しかしアメリカの没落は凄い。ドルの通貨発行権を持っていたので、世界経済拡大の名目でいろいろなものを買いまくり、ドル札を刷って清算すればよいという国だった。しかしそれはドルに対する信頼があるうちはできるが、今のような状態になってくると、どこも信用しない。もう通貨を発行して世界中から物を買うことは不可能である。
一方、輸出でしか儲けてこなかった日本は出直しを意味する。もうアメリカもEUもたいして物を買ってくれない。内需を忘れ、海外に頭をさげて卑屈に物を売ろうとしてきた政策が破綻し始めた。内需に転換しなくてはならないのだが、そのためには、国民の価値感の変換、成熟した考えかた、生き方が出てこない限り、スムースには運ばない。官僚的な考えやり方では問題外。
しかし、金融がこうなることがなぜわからなかったのだろう。日本も世界も。本当はわかっている人はいて、こうなるように仕組まれていったと考えると納得がいく。そもそも近代国家は仕組まれて作られた制度だったのではないだろうか。必ず財政赤字となり、何かに助けてもらわなくてはやっていけないシステムが近代国家に共通していたと思う。おそらく、そういうシステムを作り、国家と国民に無理をさせて無理やり機能させ、利益を自分たちのところだけに集約させていくための収奪システムが近代国家だったのではないだろうか。そして100年使われて、近代国家はボロボロとなり、絞られて最後の最後まで残さずに搾り取られ、国家は終え、国民はとたんの苦しみを味わう、、、、という形になっている。アフリカを見ればよくわかる。アフリカは世界経済からも大きく取り残された土地だが、白人が入りこむ前はみな十分に生活でき、楽しく生きていた、、、南アメリカも同様。オーストラリアも同様。とくにアフリカの現在の悲惨さは、数百年前よりもひどい。搾り取るだけ搾り取るという経済の犠牲になった地である。一番儲かるのは、いきなり人になぐりかかり、自由を奪い、もっているものは当然搾取し、永遠に奴隷にして働かせる。これが一番儲かるにきまっている。そしてそういうおろかなことをやってきた人間が近代人のボスだったのだ。そうやって金持ちが出来上がった。馬鹿にした話である。そしてそういう金でさらに研究し、どうすれば利益がもっとも上がり、自分らが儲かるのか、支配力を増せるのか、、、そして近代国家が作られた。彼らは近代国家を今度は奴隷同様にがんじがらめにし、使い捨てる。いまはまさに国家使い捨ての段階に入った。そう考えるといま世界で起きていることがわかりやすくなる。国家に最終的な負担が行くが、この重みに耐えられる国家はない。だから近代国家は消える。そして新たな仕切り直しがある、というのが大筋の私の考えなのだ。そうした凄い力を持つ流れを作れる者たちが、私たちの幸福など考えるはずもない。鳥インフルエンザにしろ、金融崩壊にしろ、戦争にしろ、何が起こされるかわからない時代には、自己防衛が意識面だけでも必要と思い、前回のような内容の日記を書いた。何もみなさんにもお米を10キロ用意したほうがいい的なことが言いたいわけではない。ただあまり国や世界を信用しないで、むしろ自立した考えと行動が大事になってくるのではないか、という考えなのだ。関係ないが、では本当のこの世の支配者は何なのか、、、というまるで陰謀論の好きな人の話しになりがちだが、そういう存在があるかないかはともかく、誰が次の支配者か、ボスなのかは、経済の動きを注意深く見ていけばわかる。中央銀行のゴールドを最終的に買い取った人が次の地球のボスなのだろう。勝敗はすでにあったので、あとはいつ国家や機構や制度が具体的に変わっていくかである。実質、国家はもう乗っ取られているというか、最初からそのために国家は作られたのだ。そして予定通りに破産状態となった。凄いことである。ただし日本はまだ完全にそうした流れにあるのとは違うとおもう。その意味で非常に貴重な国に実は私たちは生きている。過ぎた20世紀というのは、結局はどういう百年だったのか。色々な考え方、とらえ方があるとは思うが、日本と世界の争いの百年と言ってもおかしくない。日本は大戦で負けはしたが、負けて卑屈にはなったものの、世界のこうした流れを受け流して、日本独自のやり方でそれなりにやってきた。逃げない犬と思われたのか、よく働く上に御主人のいうことをよくきくので、ひもにつなぎっぱなしにされないで来れた。そのため、世界の他の近代国家とはやや異なる国になったことは確かである。かろうじてのこされた昔流のものと、勝者に完全支配された外国と、世界は面白い構図を見せている。米ソの対立、テロとの戦い、、という対立の構図はあったが、20世紀の本当の対立は実は日本と世界の違いにあった。アメリカとの戦いも、その前の日清、日ロの戦いも、日本は世界の近代国家をつくった勢力と、そんなら考えもないまま戦ってきた。それが20世紀である。そして危なく、ふらふらで、こころもとないし、たよりにならないながらも、かろうじてまだ他の近代国家とは異なる昔ながらのものが残された。もっとはっきり言えば、支配されているようで、かろうじて完全支配されずにのこされた国となっている。本当に頼りはないものの、そこに小さな可能性がある。日本人はやはり優しいし、けっこう信頼できるし、まだまじめだし、努力を惜しまない人間が多少なりとも多い気がする。まあ、本当にこころもとはないけど、まだそういう人が多い。これって実は凄い可能性だと思う。この性格の御蔭で日本は完全支配を免れてきたのだ。ポチ外交はなさけないが、紐につなぎっぱなしにならずに済んだ。日本が世界を救う的な本などは、ばかみたいでまったく論外だが、こうした国民性はやはり少ないことは事実である。私たちはそうした可能性は信じていいと思う。きっと何かができる。きっと何かを作り出せる、きっと苦しむ人を助ける民になれるかもしれない。本当にこころもとないものの、可能性はある。