師走入り
12月になった。昨日のジャパンカップもダメで春のG1戦線とはうって変ってヒットがでない。スクリーンヒローは東京なら強く、追い込みの競馬になったら負けないとは思うものの、斤量がいきなり重くなったりと、常識的には来ないと思った。私はこれまでにこの馬の単勝をほとんどゲットしていて、ほとんど穴だったが、今回だけは買ってなかった。今回も41倍も付く穴だった。つい愚痴を言いたくもなるが、そんな際に21日間絶対に文句も言わず、ぐちらず、不満を言わなければ絶対に誰でも開運するという本のカバーを見た。確かにそうかもと思った。私自身、いろいろな方の人生相談をしてきて思うのは、不平不満が多い人はまだまだ苦しむ。開運もほど遠いものだ。不平不満を言わないことが実は叡智なのだ。しかし難しいことだが、本当である。不平不満を言ってばかりいる人に、この話しをしても無駄である。かえって怒り出す。だから本当にそうなのかもしれない。ただし、それがなぜ21日間なのだろう、、よく分からないが、きっと何かで実験でもしたのかしら。ただ21日間、不平不満を言わなければ、確かにそれは習慣にはなるかもしれない。結局、私たちは、日頃の日常の瞬間瞬間の習慣により、運気を上げも下げもしているのだろう。それなら謙虚になってよい習慣、運が上がる習慣を持つにこしたことはない。その最初のことが不平不満を言わないこととなるのだと思う。私はぼやきや愚痴は結構好きだが、不平不満を言う人はどちらかというと確かに苦手である。かえって突き放したくなる。私に限らず誰でもそうだと思う。不平不満を一緒に言いだすと、必ず運は悪化する。だからあまり人はそういう人に近寄りたくなくなる。不平不満はだから孤独の道となる。そんな損ばかりしてなぜ不平不満を抑えられないのだろうか。それには、何か自分がこうなってしまったのは周囲の責任だという思いがあるためだと思う。確かにそうなのかもしれないが、それは別として、これからはよくすればいいじゃないか、、、という気持ちになれないのは、誰かに何かしてもらわなくては何かおさまらない気持ちがあるためだろう。周囲が悪いから周囲が自分を助けなくては不当だという気持ちになるのだと思う。要するに、依存の問題なのだ。不平不満とはイコール依存ということだ。リーマンの会長がなぜ自分のところだけ、、、と言い、自分が一番の被害者だ、、的な発言をした。まさに依存していた偉い人だったのだろう。
神様から見ると、不平不満は神に文句を言っていることになる。要するに天につばしている。あらゆる運命も来た以上は受け入れることで、私たちは実は大人になっていく。来たものは間違いなく自分がどこかで何かで招いたものなので、一度ようこそいらっしゃいませ。とならない限りさらに追って来る。だからすぐに受け入れた方がよいのだ。それから次の道を探す。運命はお客様であり、自分が招いた客人。いやでも仕方ない。不平不満の前に受け入れる。すると次の道が開け出す。開運はほとんど例外なくこうしたパターンを踏襲している。ふしゅうじゃなくて、とうしゅうですよ。だから仕方なくてもいいから、ウエルカムと受け入れる。そして帰ってもらえばいい。相手も一度ちゃんと受け入れてくれたのだからすぐに帰ることが多い。向き合えば相手も鬼にはならない。一度不平不満で逃げ出すと、人間は同じパターンを何年も何十年も歩むものだから、これは意識的に抜け出しを図る以外にない。その際に、21日間という設定はとてもリアリティがあって、それが本当かどうかはわからないが、それなら誰でもできるという気にさせる点が素晴らしいと思った。