晩秋の気配

秋には待ちに待った時の到来の意味がある。何かを行ってきた人には実のなる時がある。待望の時、運命の時、審判の時、、、さしずめ金融とお金の世界には運命の時、または審判の時がきているのだろう。三浦容疑者にとってはロスは運命の場所であり、運命の時となった。よいときもある。今年の秋で4回目となるものに私が始めた披講がある。時至って、10月28日きゅりあんホール、11月6日池袋芸術劇場大ホール、11月21日には初めての披講だけの公演と、お披露目の機会を与えられた。まさに石の上にも三年。三年迷わずに一生懸命になれば、何らかの手ごたえが得られる、、というものだろう。逆に言うと、人は三年ぐらいは何を始めても、うまくいかないとか、もう駄目だとか、つまらないとか、こんなもんだとは思わなかったとか、、、そういう批判を下さない方がいいのかもしれない。それなりに真剣に始めたことなのだから、3年くらいの忍耐は必要なのだと思う。というよりこちらが扉を開けるのではなく、あちらが3年くらい一生懸命になってやっている人に、何らかの扉を開けてくれるというのが正しいと思う。ちょっとここで夕食になりましたのでまた続きを書かせていただきます。しばらくお待ちを。なを、写真はヒルズの晩秋の夕空です。
 ただ今、今夜もさんまを食べてきました。この秋は何回さんまを食べたことだろう。青魚はあきるがおなかがすいたときに食べると何回食べてもおいしい。鏡先生も毎日青魚を食べてると言った。確かにお元気そうでした。青魚ダイエットというか健康法の反響がぼちぼちきていて、体が軽くなった、、、目がよく見えるようになった、、という方が多く、それぞれ手ごたえを感じていらっしゃるようだ。ありがたいことである。アメリカではもう多くのヒトたちがフィッシュオイルが体によいことを知っていて、21世紀はおそらく魚を食べることが食の中心的な位置を占めるかもしれない。これまでにも色々な健康法があったが、だんだんといろいろなことが確定的にわかってきている。これまでの栄養学は戦後のカロリー信仰から始まって、しょっちゅう定説が覆されてきた。体によいと思ってやってきたことがかえてよくない、、というまったく逆の結論となることも多かった。しかしここに来てだんだんと人間の理解が進んだのか、健康も心理についてもわかってきたのだ。青魚はそのうちのかなり重要なひとつの理解である。わかってきたことと言えば、登校拒否なども、もうどうすればいいかの定説がかなり煮詰められている。絶対とは言えないが、登校拒否が起こった際にはこうした対処が正しい、、というかなり信頼できる定説ができている。簡単に言うと、まず、決して叱らない。無理やり行かせようとしない。こちらよりも本人が悩んでいるのかだら、無理やり行かせようとしたりしなければ、子供の方から話しをしてくる。その時には、忙しいとか言わずに、会社を休んでも子供と向き合ってあげる、、、、学校に行かないときには、家族の一員としての役割、お茶碗を洗う係とか、食事係というような構成員の一人として何かをさせ、その行為に対して感謝をする。これでどうにかなっていく。数か月、数年はかかるかもしれないが、きっと動きが出てくる。急がば回れ、、、である。そして凄いのは次の点だ。登校拒否は子供の問題ではなく、家族の問題がそうした形で表れてものだという理解に親たちがいたる。子供が変わるのではなく、親たちが上記の行いをすることで、成長し、自分たちの偏った価値感、病理を浮き彫りにし、その一つの現象として子供が登校拒否に至ったということがわかってくる。要するに、子供は家族の病理をそういう形で鮮やかに示し、それに気づき意識されることで家族が修復されていくその過程で子供の登校拒否も治っていく。すべてを理解し克服した家族はみな成長する。その時、それが子供が家族にくれた大きなプレゼントであることを知る。これで全快である。このようにして登校拒否のドラマが終焉していくことは、もう定説であり、ある程度わかっている。時代の進行は人間理解にかなり至りつつある。ただし、それは一部の人だけという面はまだまだあるが、こういう流れは本当に素晴らしいものがある。戦争も、金銭と権力に狂った一部の異常性格者が実は起こしていた側面に焦点が当てられている。だから今、この未曽有の金融危機、経済危機の前においても昔のように簡単には戦争を起こせない。来年あたりそれでも敗れかぶらの戦争をネオコン権力機構は始めるかもしれないが、それをやったらもうおしまいであろう。権威の交代はかえって早まることになる。まさにみずがめ座の時代は始まっている。アイノウの時代。惜しむらくは霊的な世界の存在もアイノウになってほしい。少なくとも人間界に悲しみを作る幽界の存在を知れば、倫理感も世界観も人生観も人類は大きく変わると思う。霊的な弊害としての病理などにも大きな理解の前進があるのにと思う。まあ、時間の問題だろう。物理の世界ではもう意識と物との関係が立証されているのだから、いずれそうなる。簡単に言うと物は霊を求め、零は物を求めるという関係だ。素粒子の理解できなかった動き方は、観察者の意識によっていたとは、あまりに痛快な現実であり、上記のことが原始の最小単位において行われていることを知ったのだから、いやでもいづれ世界観は変わる。その際、意識、すなわち霊と物との密接な関係を知るにいたる。地球は丸いことがわkれば、本来なら万有引力が同時に理解できたはずだが、やや時間的なずれがあった。しかし素粒子と意識の関係を知れば、これも同様に多少の時間のずれはあるだろうが、物質的な世界観だけでは立ち行かなくなる。金儲けのために戦争をするなどというきわめて物質的な世界感は通用しなくなる。いろいろな時が至ったのである。