楽しみと日々

確かプルーストの本の題名にあったと思う。プルーストがまだ若い頃に書いたものだったと思う。もう何十年も読んでないから忘れたが、プルーストやサガンは夏の終わりになると決まって思い出す。まるで少女趣味だが20代半ばから常にそうだった。物書きになりたかった私は、夏の終わりになるとそうした思いが強くなり、書けもしないのに、原稿用紙を持ってよく上野公園に行き、美術館のロビーや都美術館の食堂でどうでもよいような文章を書いていた。どうでもよいような文は今でも同じだが、スタイルから入ることで、本当に文章を書いて生計をたてることになったのだから不思議である。上野公園でのパフォーマンスが今の道につなげたのかもしれない。フリをするというのは、イメージの確定であり、影響力を持つのだ。お金がなくても金持ちのフリをすることがいい、とどこかの本で読んだが、なんだか滑稽にも思えるものの、本気でその気になれば、やはりイメージは確定されるのかもしれない。しかしだ、そうしたことをある種の不安や恐れをともないつつ行っても、私はかえって遠ざかると思う。そう、フリは恐れのイメージを確定させるかもしれないからだ。ではどうすれば、そうしたイメージトレーニングが可能になるかだが、遊びでやるのがもっとも危険がなくてしかも効果がある。子供は遊びが仕事というが、これは本当で、遊びながら色々なイメージを確定保持していく。遊びの足りない子供で勉強ばかりやらせる親は本当にバカだと思う。バカというか、損をしている。子供に限ったことではない。イメージの遊びほど面白いものはないのではないか。趣味で寸劇団のようなものを作り、友人同士で、よっ、今度は金持ちやろうか、、、と、寸劇のシナリオを書き、すぐに行う、、、その気になればこれでひとつのイメージが確定。劇団は流行らなくても、イメージを得たのだからいづれ実現する。趣味の演劇団で目的達成をはかるなんて、面白すぎると思う。劇と同じ運命をたどった役者は実は非常に多い。イメージの固定が行われたためだ。決して偶然ではない。私は長い文章を暗記する趣味があったが、源氏物語の桐壺を全部暗記したが、途中で藤壺が死に、帝がいたく悲しむ場面がふっと心の奥に入った気がした。すると私の母が急逝した。イメージの固定は恐ろしいのだ。その後私は暗記するものを選んで、次には平家物語の、清盛が出世していく場面だけを暗記した。縁起をかついだのだ。清盛のようにはもちろん行かなかったが、それでも独立して順調に伸びていったのだから、それはイメージを固定できたお陰だったと思う。この際、期待もダメ、希望もいらない、もちろん、不安もダメ。期待や希望を抱かなければ、その分の不安もない。必死でこうならなくては、、、と思いつつイメージを固定しようとしても、その反動として、そうならなかったら、、、の不安が人には出てくる。不安が出ないのは、遊びの場のみである。だから、イメージの固定は遊びにするのがよい。その際、遊び心があるのとないのとでは差が出る。結局、人間を2タイプに分けるのは、常日頃不安や恐怖をバネに生きている人と、楽しみを糧にして生きている人のふたつである。前向きなイメージの固定に成功しやすいのは当然後者だが、その理由は遊び心があるためである。今の世に足りないものは遊びだ。全体が強制収容所のようになりつつあるので、とくに遊びが少なくなっている。遊びで前向きなイメージの固定を意識的にしてみると、少数投資での最大インカムが得られる時代になってもいる。それだけやる人が少ないのだから。バカな母親が怒りながら子供に英語を習わせ、勉強させ、子供の成功の種を奪っていく。無残だがこの傾向は続くのだろう。遊びがあれば、きっと不安や恐怖をバネにした人にも違った面が開けてくる。私もどちらかというと遊びが少ないタイプだから、もっと遊ばねば。それには遊び仲間が必要になる。恋人がいる人は恋人をイメージ固定の遊び友達にするとお互いの運が伸びると思う。夫婦でそれをやるのはもっとよいが、大体は、現実的な妻の前で夫のイメージ遊びは中断させられる。せめてそのまま放っておけば、ご主人はさらに成功するというのに。