お雛様

きょうは桃の節句。お雛様までは毎年寒いものだ。新暦なので桃はまだ咲いてない。旧暦と新暦との差異が行事には出てくる。桃の咲かないお雛様、冬まっさかりの新春正月、、、。星や季節の運行と切り離されてしまった新暦には私たちを自然から遠ざける働きがある。暦を制したものが時代を作るのは本当で、新暦によって現代文明は生じた。しかしサブプライム問題を見てもわかるように現代文明を支える根幹が怪しくなりつつある。この流れを一時的な景気の後退と読む人がいる一方で、この動きは資本主義の崩壊の序幕であるとの認識も増えつつある。私は確信的に後者の考えなのだが、それは10年以上前からの持論であった。自然から切り離された現代文明は急速に進展し急速に崩壊するという読みである。また多様化を受け入れざるを得ないアジアでは旧暦の行事がまだ生きており、かろうじて連綿としてつづく命の部分とのふれあいがアメリカなどよりは大きい。実際、歴史の主軸は西欧からアジアに移りつつある。私たちはその転換点に立っている。窮すれば通ずというが、色々なものが窮している今、時代の変化は今後ダイナミックになっていくだろう。混乱と悲劇はそういう時代につきものだが、その先には希望があると思う。今私たちにできることは、沈んでいく巨船にしがみつくおろかさをやめ、小さくとも沈まない自分の木製の船を作ることだ。新ノアの時代。ノアは神に選ばれたたった一組の人間だったが、今の時代の神はもっとやさしい。全員を助けてくれようとしている。ただ神は人を愛するあまりおせっかいはしないので、一人ひとりが船をつくらねばならないと思う。鉄製の巨船と木製の沈まない船の違いはどこにあるのか、、。自分が今、どちらの船に乗っているのか、、、の見極め方は自然な人情にある。自分のうちにある自然な人情が許す方向、求める方向が、小さくとも沈まない確かな木の船を示している。感度が研ぎ澄まされてくると、交通渋滞を見て、ラッシュの駅を見て、お店の雰囲気を見て、、、、そう日常の生活の中にある色々な顔を見て、この世の中の本質が見えるようになる。一葉落ちて天下の秋を知る、、、それと同じく、日々の社会の顔にはその社会の本質を映すものが出ている。銀行に行けば、その銀行の体質がわかる。ある企業に行けば、その企業の体質が分かる。私はある自動車会社の車を乗ると、特有の不快さを体に感じる。例えばそこの企業の大衆車にのると、お前はこういうレベルです、、という強制感を持たされる。そこの高級車を乗ると、年収いくら以上で趣味はこうでこうしなさい、、というやはり強制感を持たされる。車に詳しくはないので、最初からそこの企業の車とわかって乗るのではなく、乗って感じると決まってその企業だったのだから、不思議である。上の体質は末端の商品にまで必ず出てくる。となると一番のセンサーは自分の情に沿ってみていくとわかってくる。情のない人はいないが、それが不安や恐怖によって隠されていたり、欲望に目がくらんでいると、自身の中にある情が働かない。情に流されると損するのがこれまでの時代であったが、情こそが最高のセンサーの働きとしてこれから生きてくる。怜悧に計算高い人のほうがこれからは損する時代に入っていく。状況が見えなくなるからだ。すでに政治家を見ていて、この人たち、何もわかってないな、、、ということが民衆の多くの人にはもうわかってしまっている。時代の交代というのはなるほど、こうして起きてくるのだな、と思うこの頃でもある。