成人35歳説

日本人に責任がとれなくなってもうどのくらいたつだろう。何か起こると、すぐに逃げる。責任がとれない。原点主義できてるせいだろうか、間違うことを恐れ、問題が出るとそこから逃げ出す。うまくいっているときはいいが、ひとたび試練に見まわれるとウソみたいに弱くなる。これが今の一般的な大人像である。要するに大人ではない。スーツを着た子供なのだ。35歳でもまだ子供が多く、一生子供のままで老人になる人も多い。子供は得する面も多いが、依存的な生き方しかできないため、常におびやかされやすい。それだと心の平安が得られない。心の平安がない幸せはありえない。欝、ノイローゼ、神経症、これらの区分は明確ではないが、子供でまじめな日本人が陥いりやすくなるのは当然。その上神経科外来に一度でも行くことは、人生を捨てたも同然という考えなどに取り付かれる。あまりに幼稚。成人の日に私がやってほしいことは、人生は苦であり、挫折があり、死にたくなるような状況が必ず訪れる、、、ということを語り、しかし、人生の意義や重みや、人の力や実力や誇りや生きがいは、実はその後から出てくるものだということを、語る日にしてもらいたいものだ。挫折なくうまくいっても、人は幸福にはなれない。なぜなら心に平安が訪れないからだ。脅かされながらの見せ掛けの幸せが、マスコミが説く幸福である。しかしそれはウソ。お金だけあれば、出世さえすれば、人は幸福になれるというほど、人生は単純ではない。挫折し、苦労し、不幸を感じ、そこから出発して自分の考えや感じ方を信じることが出来るようになった人にしか幸福は訪れないのだ。地球が23度半傾いているうちは、このルートははずせない。いずれポールシフトなどがあり、また地球が90度に戻ったときには、苦労もなく、挫折もなく、誰もが、幸福になる時代がくるのかもしれないが、今はそうではない。逆説の中からしか真実を見出せない、ということがわかってしまうと、実は生きやすくなる。悲しんでいるものは幸いである、苦しんでいるものは幸いである、という逆説を重視したのは当然。雑念を振り払おう、として座禅を組んでもどうにもならない。理想は現実ではないので、リアルに到達しない。雑念を見て味わっているときにリアルに達する。すべて逆説。神経症、ノイローゼはどんなに治そうと思っても治らない。理想はあちらにあり、現実ではないのだから、物理的に無理なのだ。治そうではなく、ノイローゼのまま生きようとする決意が大切。そうなると不幸と一体となることが出来、リアルとなり、リアルが喜びという立体の世界を体感できるから、ノイローゼは霧となって瞬時に消える。よく考えて見れば、神経症もノイローゼも欝も、極めて物理的に捉えられる。理想という概念に人は捉えられるので、それができないだけ。大人になるということは、この逆説をある程度理解するか、感性として分かっているかが必要。このままいくと、多くの日本人がおそらく行き詰まり、ノイローゼになり、憂鬱になり、神経症になり、苦しむだろうが、それは逆に大きなチャンスになっていく。しばし苦しいだろうが、もう少しの辛抱。欝のあなた、神経症のあなた、ノイローゼのあなた、出口は近い。そこまで成れたということが偉大であるということがいずれ分かるはず。もう少し。数少ない大人になれるパスポートを与えられている人が今、苦しんでいる人ということ。酒をやめるぞ、では必ず人は負ける。なぜ自分は酒を飲むのか。飲むことで何を満たそうとしているのか、でなくてはダメ。それは弱さからの安易な脱出だったり、何かから逃げたときからだったりと、気がついてくる。そう、その埋め合わせをしているのだ。なぜギャンブルに凝るのか、、、満たされない日常は自分にウソをついて生活しているからだと気付けば、ギャンブルはつまらなくなる。競馬についてはあまりいいたくないけど、なぜでしょう。よく考えておきます。しかし今日のガーネットステークスは私は買わなかったが、勝ち馬は分かったよ。スリーアベニューだと。阿部政権ができて約3ヶ月。初めての新年だから、スリーアベニューで決まりだと思った。しかし相手の馬名を知ってびっくり。リミットレスビッドだった。まさか阿部政権がリミットレスなんてことだったら、ぞっとするよね。阿部さんはいかにもてんびん座のまじめなタイプですが、民意は読めてないですね。美しい日本を目指した取り組みが、、、、と年初に語ったが、美しい日本の意味がどこにも伝わらない。首相が美しい日本、といえば言うほど、うわっすべりのいやな気分を国民が感じとるということが、わかっていない。これほどまでに民意を離れてしまったのだな、、、と思うとぞっとします。美しい日本、ではなくて、素敵な日本、といえば、もっと人気が出たのに。意味もなんとなく分かるしね。美しい日本では、かくあるべきの理想論で、最終的には神経症の世界に進むしかなくなる。首相がそうなるか、または国家がそうなるか、どちらかなので、この国は行き着くところまでおそらく行ってしまうだろう、という気がしてきました。