音のアイデンティティ

クラッシク音楽を学ぶ人はやはり本場のヨーロッパやアメリカへ留学するケースが多い。留学中に彼らの多くが、自身の音楽の中になんらアイデンティティのないことに気付き、不安になる、という場合があるという。そうしたケースから日本の音楽を再び学ぼうとする人が、よく披講学習会にもいらっしゃる。なるほどと思う。芸大には邦楽科はあるが、雅楽が主で、まだまだ日本には数多くの音の文化がある。披講、声明、祝詞以外にも、民謡や芸者の伝えた歌にいたるまで、幅広い、色々な音楽がある。こうした音楽をきちんと自国の音の文化としてアカデミックな世界が捉えてくれたことがあるだろうか。音の文化は古く、絵画や茶道や香道や雅楽以上に古く、人の生活に密接であった。こうした重大な音の文化を、まったくないがしろにしてきたのが日本のアカデミアである。これでは、日本自体に質の低さというか、浅さが出てきて仕方ない。政治家も教育者も企業家もどうしても底が浅くなってしまうだろう。支えてくれるものに確固とした文化的背景を持たないのだから。小泉前総理のオペラ好きは有名だが、オペラが好きだというあのなんとも言えない底の浅い感じはどこから来てたのだろうか。自国文化に誇りを持たないし知らない浅さのゆえではなかろうか。減反のため土地を売って金が入ると、息子に車を買い与える。息子は車にアクセサリーをつけて我が物顔に田舎の道をぶっ飛ばす。こうしたことに似た一連の浅さが日本に蔓延している。教育問題も企業問題も、こうした浅さをどこかで埋めたものでなければ、結局は何も変わらない。自国文化の根底の感動と誇りを知らない民が何を学んでも何かが軽い。その最大のものが、実は、音の文化である。どの国の文化でもその最深部には音の文化がある。これをないがしろにしては本当に手ごたえのあるものはできず、てごたえのある生き方もできないという、極論だが私はそうおもっている。私が本気で尊敬する森田正馬は、和歌を50首丸暗記すると自閉的な子でもずいぶんと豊かな感情が育ってくると言った。和歌の意味などわからずともである。音読の力だろう。この宇宙にはあらゆる音が鳴り響いている。あらゆる音が一体になると、おーっという音に聞こえる。歓声を遠くから聞くとオーッに聞こえるのと同じだ。おーという音には、だからあらゆる物事の、営みのエッセンスが含まれていて、あらゆる価値感を越えたところにある感動と感激、すなわち歓喜の音として働く。私たちが、自分の狭い価値観を越え、教えを越え、自分の存在よりもあらゆる存在の偉大さを実感したときには、おーの言葉以外に出なくなる。この音が宇宙に流れているというのだ。音楽抜きで人生も恋も生活も語れないと思う。そこで私も恥ずかしながら、28日の妖精祭では、また、帰れソレントへ、か、ベートーベンのわれ君を愛す、のどちらかを歌う予定です。そして最後には和歌披講もいたします。また、おー音の合唱もやりたい、、あいうえお、50音をひとりづつ担当してもらって、全員で50音声を張り上げると、宇宙にこだますおー音が聞こえてくる、、命の音の体験ワークショップである。何か、いいこと起こりそうじゃない、、。