大河を渡るによろし
易経の中によく出てくる言い方で、大体は大吉を表す。大河を渡るのは一大決心が昔は必要だった。易の中では多くが何事も注意しろとの添え書きがつくが、大河を渡ってもよい、という卦は手放しで大体はいい。知恵、力、気力、時のあらゆる条件が整ったときにしか大河は渡れない。シーザーがルビコン川を渡る、とは、もう引き返せない大事に打って出たことを表し、その昔、毛沢東も黄河を泳いで自身の健康や姿勢を民に伝えたことがある。狐は川を渡る際に、尻尾を高く水面にあげながら泳ぐ。そして途中で尻尾が水に濡れたらすぐに引き返す。体力、気力の衰えか、または予想以上の急流のために尻尾が水に濡れたからである。夢でも川を渡る夢は大事である。時代が変わることを意味する。人は生涯のうち何回かは、本当は川をわたらなければならない。しかし現代人にはそれが難しい。渡らねばならない川はあるが、死ぬまで川沿いを歩こうとする。いつから人は川を渡れなくなったのだろう。平均点信仰のせいか、または受動的で責任のともなわない生き方が蔓延したせいだろうか。確かに、シーザーや毛沢東でさえ、大河を渡ることには一大決心がいったのだから、普通の人が川を渡れないのは無理はないかもしれない。では、時代が大河を渡る状況だとしたらどういうことになるだろう。今の時代は、人に言わせれば、一万年に一度の変化の時代という。しかし一方で何も変わらない、、、と思う人もいる。見えているものしか人には見えない。私もわからないものの、少なくとも千年単位の変化の時代だとは思っている。第一次、第二次大戦、も今の時点で思えば、ここにいたる時代の一齣に思えるのだから、大きな変化であることは確かだろう。アジア、中南米、インド、アフリカの覚醒。経済圏の確立。白人はそれにどう対応しようとしているのだろうか。これまでの力学で地球が動くと思うのは間違っている。若い人は未来に賭けたほうが良い気がする。確かな安全な信仰はいま危険である。たとえば、日本の自動車産業は今、素晴らしい発展段階にあるが、本当にこのまま行くのだろうか。確かに物凄い市場が拡大中であり、車に乗るひとが増えていくことは確実。しかも日本車はそのシュア争いに勝っている。だから普通に考えれば日本車がさらに大発展する可能性やスケールアップする可能性は高い。だがどうしても私にはそう考えられない。なぜかというと、これは好き好きの問題だが、私は某国産車に乗ると、苦しくなる。はい、あなたの年収はいくらですから、こういうスタイルでいいですね、、、はい、あなたは結構高給取りですから、こういうリッチな内装の車に乗りなさい、、、と、そういう押し付けがかまわず主張されている貧しさを感じてしまうからだ。もちろん、メーカーに文句をつけているのではなく、おおぜいの人がそれがいいと思っているのだから仕方ないし、何の問題もないのだが、ある日、人の意識やセンスというものは、突然に変化していくような気がする。ただいまは、そういう新しい感覚を刺激するものがないから分からないだけで、かわりのあたらしいものが何か出てきたら、なだれが起きるという形で世界はきっと変化する。車とステータスが今はリンクしているので、これだけ巨大市場足りうるが、車とステータスのリンクが恥ずかしいものとの意識が人類に津波となって襲ったら、すでにいまある車の台数で事足りてしまう。商品の供給にとってもっとも恐ろしいことは、人の意識が上昇することなのだ。だから時代はいつでものろまで、遅れて、閉ざされていることが望まれた。しかし携帯がインフラのすくないアフリカでも浸透したように、かえって遅れていた地域にこそ新しい発明は威力を発揮する。面白い時代の変わり方が始まっている。この時代を前にして、誰もが大河を渡らねばならない状況がやってくる。しかしそれは全員で渡るのではなく、一人ひとりで渡る以外ない、孤独の変化なのだ。いま、私たちを保護し、支えてくれている企業や仕事や組織は今後私たちを必ず離し出す。その時が私たちがそれぞれ自分の大河をわたらねばならないときだ。仕事を変えればどうにかなるのではなく、何かで収入をあげなくてはならないのは同じだろうが、その根本に生き方の変化がないと、いずれ対応できなくなる時代なのだ。