歌の神
不思議だ、まだ体が温かく、ゆったりと温泉に入った後のような状態がもう30時間近く続いている。原因は昨晩の歌会にあることはまちがいない。私は試しに数人の方に連絡してみて、まったく同じ症状であることを確認。なんだ、これは、、、ということだが、要するにエクスタシーである。昨晩の歌会に歌の神様がお降りになったのだ。というとかなり怪しまれるだろうが、歌の和が成立すると、こうした現象が起こる。神が憑くと人は心地よくなるのである。人間に神を理解することはできないが、神と人が一体になり、人に神が憑くと、とにかく気持ちよくなり、一種のエクスタシーが続く。和歌の本質はまさにそこにある。和歌で和がつくられるとこうしたことが起こるのだ。確かに昨晩の歌会では参加者のすべての方々が心から喜ばれているのが伝わった。一条天皇縁の元神明宮において、一条天皇の縁の歌を歌う奉納の歌会であった。講詞という歌を読み上げる役の人が、まず始めに、秋の夜にえにしある者つどいて歌をば捧げん、、、との発声で始まった。縁あるものが集い、歌を神に捧げたのである。私は何も考えずに22日の日を選んだが、なんと22日は一条天皇の命日であった。これも縁であったのだろう。この歌会をすすめるにあたり、実は私も講師のH氏も半分命がけの覚悟だった。というのも、昨年に同様の歌会を開催した際に、雷が突然鳴り出し、それはこれまでに体験したことのないような激しい雷であった。直前までは晴れていたのに。そして二日後に披講された一方が突然天に召された。誰もが雷の歌会と関連して考えた。そして一年後に再び奉納の歌会を開催し、そこに関わるあらゆる縁の融和を私は祈ったのである。それだからとても嬉しかった。まさに和の歌会になったことが、出席者の体の状態で分かったから。つくづく歌会は重要であることがわかった。昨晩は約50名の出席者がいらしたが、この50名には、その体に神かかる道が出来ている。これらの方々が、それぞれに何か、工夫をされて思いをもって歌会ないし、なんらかの人と人との和の現場を形成したとしたら、そこに神がおりやすくなっているのだ。歌会はこうした人をつくっていく。幸福のコピーである。コピーというよりも伝播である。一度でも体験すると神がかかる道のようなものが出来ていく。幸福も不幸もこうして伝播していくのだ。世の中には幸福をつくれる人と、不幸をつくれる人がいることになってしまう。しかし実際にそうなのだ。自分が幸福がつくれるとか、そういう権威的な形ではなく、和というものを一度でも体験するとそこに和の道ができて、上質の神がかかるようになるということなのだ。王道が歌会なのだ。日本は歌会によって物事を作ろう、物事を達成させようとした国である。しきしまは和歌の国とは、このことであり、和の力を知っていた。私がしつこく披講について語るのにはこうした確信があるからなのである。昨晩の奉納歌会の写真を連続でいきます。