7時17分 さそり座新月
現在7時37分で先ほどのさそり座新月の気を捉えました。今回の星のローズ水にも期待してください。
このところ色々なイベントが相次ぐ中、明日は私が主催する秋の歌会がある。以前にも取り上げたが、一条帝と縁ある歌による歌会。すると不思議なもので、こうしたことに縁ある情報が寄せられてくる。本当に今の時代はこうした特徴がある。何か、中心的な目標を持つと、誰でも必ず、その達成を助けるために周囲が動き出すという形が加速度的に進んでいる。ただそこで間違ってはいけないのは、もしよくないことや、悪いことを企てたとしても、その実現を助ける周囲の力がある種の縁を伴って起きてくる、ということで、天は善悪に関わらず、物事の達成を早めようとしている。それぞれがそれぞれの縁の元に集約していくために動きだしているように思えてならない。これまでにも偶然というものはないのだが、その感は加速度的に高まっている。江戸時代に目標をたててその実行を考えるのと今とでは、かなりの時間的優位さが現在にはある。時間の加速もさることながら、人に道具が与えられている、と言う面も大きい。通信手段にせよ、物つくりの手段にせよ、距離的な制限の範囲にせよ、あらゆる物事の達成が早いのだ。もっとも損なことは、だから実行したいもの、表現したいものを持っていないということになる。ただ生きるというのももちろん素晴らしいことだが、それには訪れる物事をすべて心理的に受け入れるという高度に磨かれたものがない限りおかしなことになる。それが時間的達成が遅かった昔と今との違いなのだ。比較的ただ生きることに矛盾がなかった昔と、物事の達成を早め、縁ある者同士を集めるように働く時の質との違いがある。アメリカは人種差別の問題を根底に抱えて色々な政策を行ってきたが、結局は、人種別に暮らしたほうが無理がない、、、という形をそれぞれが自ら取り出している。アメリカに限らず、日本のひとつのクラスでも、互いの個性がぶつかるよりも、似たもの同士が集まるほうが自然、という流れが優先しているような気がする。これらはなにを物語っているのかというと、人の集いにせよ、行き方にせよ、その背景に約束としての履行よりも、自然な気分、感情が優位に立っていることで、文化の時代が今の時代原動力になりつつあることを示す。平等や階級の問題を越えた時点でそうした動きが出ているわけで、人類はイデオロギー信仰を捨てだした。感じるもの、快適なものは人によって違って当然。自分の手ごたえを信じたほうがいい。正しい未来像を考え実行しようとしてもなかなか目標はみつからないが、手ごたえをさがしてみれば、自分が求めるものが見えてくる。そうすれば達成は早いのだから、キーワードは正直ということになる。正しいことでは人の心は満たされない。いけない、だめでしょ、という規範意識の強制によって子供を育てても、必ずいつか行き詰る。子供が必要とするのは、規範や正義ではなくて、単にやさしさが必要だったにすぎないのだから。これは子供だけに言えることではない、今ほど、人がやさしさを渇望している時代はない。私は昨日、スーパーのレジで、たくさんの買い物をして後ろに並んでいるお客に迷惑をかけた。その際、店員さんが出てきて、後ろにお並びのかた、こちらのレジへどうぞ。と声をかけてくれた。すると最初に並んでいるおじさんよりも、もっとあとに来たうしろのおばさんがさっと隣のレジに移行した。おじさんのほうが先に並んでいるにもかかわらず、後のおばさんよりも待たされてしまうわけである。最近ではこういうケースが起きないよう、店員さんが最初に並んでいるかたからどうぞ、と声をかけるものだが、今回はそうではなくて、さっと行動したおばさんが先になってしまった。当然、おじさんは不服そうである。わたしの買い物が原因ということもあって、私はつい、えーっ、本当は先だよね、、、とおじさんに声をかけてしまった。するとおじさんは瞬間的に顔がほぐれ、いかにも納得したような顔になって不満気なく後ろに並んでくれた。私のひと言で溜飲が下がったのだ。私はおじさんを気の毒に思うと同時に、人間は理屈ではなく、まして正義でもなく、わかってほしい、やさしくしてほしい、というもので生きているのが現実だということが分かった。この部分が満たされない限り、人は幸せな気持ちでは生きられないのだ。そこから自分の人生や生き方を考えるのも大切なのではないか。