2007年はどんな年

毎年この時期は色々なところから来年についての質問が寄せられる。私が考える来年は、外圧による待ったなしの変化の年となる。具体的には、一流企業の外資による乗っ取り。商法改正はモロに効くだろう。あの企業も、この企業も、、いつの間にか外資に乗っ取られていることにいずれ気付く。日本の政府は大借金、国民は機構や政府に頼るばかりで自己改革能力なし、問題解決能力なし、、企業力のみが唯一どうにか面目を保っていた国だったのに、それが外資に乗っ取られたら、何がこの国にのこるか。そう、何も残らなくなる。しかしこの国の機構でのさばってきた、実力もないのに威張っていた権力機構が力を失う。そのおかげでこの国に可能性が出てくる、というのが私の考え。日本は軍服を着て世界に出て行って戻ってきた。次にスーツに着替えて商品を持って出て行ったが、これも戻ってくることに。最後に残るのは、こちらが何もしなくてもあちらから来てくれるものは、日本の自然、及び文化。ここにシフトしていけば、日本は新しい生き方がすぐにでも実践できるのだが、予算配分などの実権を握っていた人たちには、文化の力はわからない。勝てば官軍的な権力体質が根底から崩れない限り、文化の再興はない状態が日本だった。勝てば官軍が日本をダメにしたが、この元は、結局何だったのかが日本の本質を理解するのに重要。日本に限らず、世界にも二つの流れがある。ひとつは強権、権力にその存在をシフトする一群。もうひとつは自然、全体とつながる形での存在にシフトする人。この二つの対立は非常に深く、縄文などをのぞけば、大体は策略家である前者が勝つ流れが、ヨーロッパでも日本でも同じだった。マヤにいたっては、数百人のスペイン人に滅ぼされたのだから。ヨーロッパでは森の住人は自然とつながる知識の集団だったが、魔女狩りなどの構造同様、ケミカル軍団にやられたのだろう。縄文一万年の歴史もあっという間に終えてしまった。それほど血はながれなかったものの、壊されたことには変わりないのだと思う。自然もそうだが、悪意の前ではすぐに壊される。自然破壊の構図でまだ両者の対立は続いているのだが、いつも勝つのは権力機構なのだ。しかし文化の時代になるとこれは逆転する。権力機構の一段には文化的発展による国づくりは絶対にできない。官僚には無理なのだ。もうすぐこの構造がひっくり返る時代になる。3000年以上前の構造に戻らないと、次のビジョンが描けない面白い時代になっていく。これから発展するものは、すべて後者的なものだ。六本木ヒルズも表参道ヒルズも、根底に流れているのは、前者的なものだ。おそらくどちらも儲かっていないと思う。とくに表参道ヒルズは経済的に大失敗しているのではないかと思う。実際は知らないが。あれは古い構造に属している。私は全時代的、権力機構信仰を、藤原的なるもの、という言葉で勝手に語ることがある。天皇を自由に扱い、勝手をおこない、政治力に長けてきた藤原の流れは、官僚、政治、権力機構、などに化けた。しかしこれからはそれではどんどん苦しくなっていくはずだ。私が22日に一条天皇の時代を復活させ、その歌会を催すのは、その根底に、藤原的なるものを遠ざけ、日本人の奥底に眠る、古き魂の復活としての歌会として位置づけたのである。一条帝は道長によって、もしかしたr愛妻と子供を殺されているという疑惑がある。事実はどうだったかわからないが、その後道長の娘と結婚させられたこと、また道長のもだえ死ぬ様をみるにつけ、藤原的なるものは天皇に容赦なく迫ったことが推測される。天皇家の歴史は、実は藤原なくしてその権力機構は存続できなかったかもしれないが、同時に藤原はヤドリギであり、天皇の生き血を吸い続けた一族という側面があったのである。こうした構図は世界中に存在する。つきつめれば、直日に直結する天然自然の生き方と、外来のおそらく宇宙の一部の不自然な意識帯から来る波動と、地球は両者の行き交う島なのだ。そしてこの構図はいまなを続いている。しかし天然自然の出番がないと、全体の生命力自体が枯渇するところまで行っているので、面白い逆転劇が見られるというのが、私たちの時代の特徴なのだ。非常におもしろい変化が今後、長い目で見ると起こってくると思う。