マリィプリマヴェラ先生

マリィプリマヴェラ先生が9月24日の妖精茶会にいらしてくださる。マリィ先生とはかなり古いお付き合いがある。私の体重が40キロ代だった当時を知っている数少ない友人である。もちろん同業者で共に学んだ仲でもある。妖精茶会に関心がおありでいらっしゃってくださることになったが、歌が上手なので、歌ってもらおう。本当に上手である。双子座だからだろうか、習うものがなんでも自然体でできてしまう。歌も力が入ったら本当には声が出ない。私は力んでしまうが、マリィ先生の自然な歌声は私が先生の音楽会を開きたいと思ったことがあるほどだ。双子座の流れにさからわない自然体は文化藝術には本当に有利である。確か木星も双子座だったと思う。幸運の歌声であるから、ぜひ歌ってもらおう。ついでに私も木星と太陽が合だから、下手でも幸運の歌声ということで、歌わせていただく。帰れソレントへ、をアカペラで歌うかもしれない。しかし恥をかきそうだから、やっぱり披講にしておこうかな。まあ、その時のノリで決めよう。関係ないが、その時のノリで決めるというのは、意外に合理的である。考えに考えてやることももちろん大切だが、その場の自然なノリで生きられると、大体のことはうまくいく。ノリだと100パーセントを出す必要がない。100パーセントを出せねばならないプレッシャーは人間には重い。良い例が入試である。100パーセントを求めるから辛い数年を費やしてしまう。オリンピックや入試や大事な試合や、見合いもそうかもしれぬが、100パーセントを出さねばならないものは、疲れるし、不自然。とはいえ、入試など避けられない事柄もあるので、その時は仕方ないが、それとは別に日常生活の中でも、100パーセントを目指す人がいる。これは疲れる。論理的矛盾に陥ってもいる。毎日が入試に向かう受験生と同じことを生涯続けることは不可能なのに、やろうとするのだから。消耗して当然。100パーセント信仰は捨てるに限る。50パーセントでいいと思う。ちょっと気張って60パーセントが出せれば上等、というぐらいがいいのではないか。その方が自分のルールというか、こちらが何に対しても主導権を取れるから楽になるのだ。100パーセントの受験はこちらには1パーセントの主導権もない。100パーを目指すという生き方は、主導権が相手にある世界にしてしまうことなのだ。なぜなら、評価と評判が重視されるためである。それが50とか60となると、自己評価の肯定感に支えられるので、楽なのだ。その方が本来的な生き方であると思う。ウツなどで何も出来なくなった人が、自分を追い込むときの基準は相変わらず100パーなのだ。それでは本当にパーになってしまう。私はアドバイスとして、一日に何かひとつだけでも出来たら自己評価して、ということにしている。一日に何かひとつとは、歯を磨くことでもいい、顔を洗うことでもいい、何かひとつだけでいい。未来につながる何か小さなひとつができると、穴が本体に通じる。どんな小さな穴でもそこから水が流れれば、プールを満たすことだってできる。ひとつが大切。あれもこれもで、人はきっかけを無くしてしまう。あれ、だけでいいのだ。これ、だけでもいい。なんと気楽、なんと自由。人は誰に対する責任もないと思う。責任でやろうとするから、疲れる、恨みすら出てくる。大変なことはしないほうがいいのではないか。本気でそう思うと、エネルギーが勝手に出てきて、色々やりだしてしまう。心が自由になると、エネルギーは勝手に出てきてしまうのだ。義務観から行動する際の不利な点は、エネルギーがわかない点。引きこもりの人は何もしていないが疲れていると思う。葛藤があるから疲れる。引きこもりを本気で楽しんでみると、そのことを人に伝えたくなる、知ってもらいたくなる、こんなにすてきなんだよ、、、 と。母にも教えたい、父にも教えたい、友人にも、、、と、なんだか積極的になっていくのではないか。決してそうならないのは、自分でも楽しんでないからである。引きこもりを楽しむ人などいないのだろうが、なら辞めたほうがいいのに、そうできないのは、こうあるべきという信仰が根強いからだ。引きこもり、私は決してわるいことだとは思わない。と言って、とくに意味があるとも思わない。自然にしていれば飽きてくる。自然でないから飽きない。悩みですら、それに徹すると、飽きてくる。悩み続けるというのは、なかなか出来るものではない。50パーセントの法則はここにも働いている。飽きているのに辞めないから不幸なのだ。不幸とは飽きている生き方を続けているということだ。私は青年期に悩んで悩んで、ある日、そのことに飽きてしまっている自分をごまかせなくなった。旅立たねばならないと思った。かくれんぼをしていて、ずっと隠れていたけど、誰も捕まえてくれない。そういう状態が何年も続いたら、人は飽きてくる。そう思って出てくればいい。