8月6日

その昔、8月6日が宮島の管絃祭だったらしい。しかし今は日にちが違う。原爆記念日だから変更は当然だった。昔から続いている行事がその後の事件によって日程を変えるに至るのは珍しいと思う。その昔の管絃祭などよりも何よりも特別な意味がある日が後世に生じたのだ。私がとにかく気にいらないのは、原爆投下時間である。朝の8時15分、この一点をとっても、それが人道に対する罪であることは避けられない。戦争を早く終わらせるために投下されたといわれるが、戦争が終える前に早く使いたかった、というのが本音なのではないだろうか。8時15分という時刻は、子供も学生も、出勤する人も、要するに、市民一般の活動が始まり、外に大勢出てくる、まさに虐殺時刻としてこれ以上のものがない時刻である。この一点には弁解不要の重さがある。しかしなぜああいうことができるのだろう。核兵器を無くすことが悲願というのがそれからの日本の一貫した考えだが、私はそれもおかしいと思う。交通事故があるから、車を無くすのが悲願ということと同じになってしまう。たとえ核があっても、それを使用する人間をつくらない、ということでなければ意味がない。なぜ、教育は平和の大切さを説きはするが、戦争を起こさない人間を作ろうとしないのだろうか。子供のときから、あちらが悪くても、核のボタンは人間は押してはいけません。悪い人をでは罰するのに、関係ない人の命を奪う選択を人間はしてはいけません。という教育の基本をなぜ教えない。汝、人を殺すなかれ、物を盗むなかれ、という、決まりごとの最低の内容がそうであるのに。核を使用しない人間を作ってほしい。人間はずるいので、自分を守ろうとして、仕方ない、、、という判断をしてしまう。だから、戦争反対では何も意味がない。戦争は反対でやりたくないのですが、仕方ない状況だから、、、、、というやり方が、本物の悪魔のやり方であることに、もういい加減に気付いたらどうか。考え方が反対なのだ。人間には感情があるから、戦争をしたくなったり、人を許せなくなったりすることがあるのだ。だからこそ、そう思っても、戦争をしない人、人を殺さない人、を造っていくしかない。感情論で戦争反対というのは、詭弁である。誰だってそう思っている。なのに、理不尽なことがおこると、今度は戦争やむなし、、、となってしまう。それは、日ごろ戦争反対と言っていた作用反作用でしかなく、同体の感情論である。感情とは別に、戦争をしない人、核を使用しない人、人を殺さない人、を教育して欲しい。戦争反対、平和の大切さ、という美辞麗句でごまかさないで欲しい。また、あたかも戦争を無くすことがいかに大変であるかというような報道も止めて欲しい。難しいことではない。戦争を起こす人がいるからなのではないか。戦争をして儲けるよりも、もう、人の意識を上昇させて、文化的な深みを作っていくほうが、これからは、世界経済の観点からも伸びるのだ。もう、いい加減に古いやり方は止めて欲しい。少し考えればそういうことが分からないはずはないので、この世は、やはり非常に問題がある構造をしている。うそと理想でかためて、都合よくその方向性を自在に操ろうとしている面がある。水瓶座の時代は我知る、の時代である。一人一人の覚めた目で、物事を理解していかなければダメな時代なのだ。もう戦争では何も得られなくなる。人を生かして儲けたほうがずっとうまくいく。そういう時代になっている。となると、最後の難関は、人の苦しみをエネルギーにしているケースとなる。これは誰、というものではなくて、自分を押し殺して生きていくと、人は最後には人の苦しみをエネルギーにする、復讐心での生き方を得るしかなくなる。官僚的な冷たさの根幹はここにある。だから戦争をなくし、破壊と混乱を解消するには、そうしたものをエネルギー源にしている、大体は出世している層の、本質的な癒しが必要になる。ただこれも面白いもので、この世のさらに上の本当の権威者というのは、子供の頃から大切にされ、周囲の安寧のうちに暮らし、しかも体に悪くない食べ物を食べているから、二世、三世と代を重ねるにつれて、自然と神性が宿ってしまう。逆に一般市民のほうが、疲れ、苦しみ、不安と争いの渦中にいることで、その神性を失い、人の不幸による救済を心の底で望むという、逆転現象が起きやすい。その意味では、本当にどういう層を信じていいのかわからない時代でもある。結局は自然な情がいかに大切かということになる。それが優先すれば、核のボタンは押せなくなる。教育は情の豊かな人間つくりに失敗しているということである。では情を伝えるには何が必要か。先生の質である。長い苦しみを耐えてきて、しかも情を失わなかった人が教育者にふさわしいのだ。長い苦しみを耐えた人には甘えはない。逆境のなかで情を失わなかった人には強さがある。弱い人の情は迎合に結びつく。戦争反対、核廃絶、それは当たり前。戦争をしない人間を作ってください。写真は先日、森村あこ先生と会食した際のもの。森村先生は癒しの達人。ヒーラーのヒーリングを昔からやっていたのだから、本物のヒーラーだよね。癒しはブームではなくて、次の時代に進むために必要。こだわりを過去にしていくのが、癒しなんだと思う。官僚的冷たさは時間がどこかで止まっているので、成熟できない、要するに、過去になっていない何かがあるためです。