法律と心
ショッキングな話を聞いて心が痛い。夏休みに入ったのはいいが、子供の安全を守れない両親が世間にたまにいる。その子は学校のプールに来たのだが、やけに痩せていて物悲しそうな顔をしているということだった。尋ねると、長いこと、にんじんに塩をつけたものしか食べていないと言った。にんじんは栄養があるからとか。給食があるうちはなんとか生きられても、そんな状況でプールも何もあったものではない。民政委員の人が心配で尋ねても、親は施設には入れないというらしい。施設に入れないのなら、きちんと食べさせてもらいたいが、強く指導、保護ができないらしい。そんなことがあっていいのかと思う。子供の命や安全を守れない国は最低の国である。最低の国と言うより、最低、これだけはやってくれなくてなまずいという、最低限の重大な問題だ。うちで引き取ってもいいと思うが、周囲の人は深入りしないほうがいいと言う。とにかく民政委員に、もし不慮の展開にでもなったら、今は責任を問われますよ、とそう言うつもりだ。昔はこういう話が本当に多かったらしい。そして何人もの子供を引き取って、全部自分のお金で大きくした例がたくさんある。中には10人以上の子供を引き取って社会に送り出した人もいるとか。そういう人は本当に偉いとおもうけど、国はその分、恥を感じなくてはいけない問題なのだ。子供が少なくなって増やしたいのなら、まず、そうやって多くの子供を守ってくれた人に国は改めて感謝し、なんらかの栄誉を与えてもいいのではないだろうか。そうした順番が大切なのだ。人口を増やすというのは、大問題だから、正しい順番に沿ってことを進めなくては決してうまく運ばない。まずは、生きていけない子供を守ること、それをしてくれていた人たちを、高く評価し、その労に報いる感謝を捧げることが初めにやることなのだ。現代文明の行き詰まりも同様である。アメリカもオーストラリアも、まず、原住民に謝り、その霊に懺悔し報いることからしか、何をやっても現代の問題は解決しない。まず、正しく心を正さなければうまくいくわけがない。こんな簡単なことが分からなくなってしまっている。秀才の限界でもある。心が弱いと物事の本質が見えなくなる。人間の不思議な習性なのだ。しかし塩人参と言うのはかなりでたらめな話だと思う。なんで子供を生んだのだろう。生んだ以上は塩人参で子供を育てようとするのは罪である。子供が危ない以上に、弱いものにあたる親はそのことによって自分が傷ついている。何もない時代の塩人参なら子供は育つかもしれない。その場合、親は塩と水しか口にいれず、子には人参分の愛があったからだ。どんなに貧しくても愛があれば、どんぐりだって料理して子供に食べさせられる。餓えはお金の問題ではない。