梅雨入り
関東も梅雨入り。この季節が好きな人と嫌いな人とはっきり別れるようです。私は意外に好きな季節。緑がきれいに見えるのと、雨と緑の混じったにおいが、体の奥に浸透する感じが大好きです。その昔、アジサイを見に行くといつもそのにおいがして、不思議とロマンチックな気持ちになった。自然って、ロマンチックな気分をかき立てますね。先日の某先生をお迎えした講演会、ならびに食事会も無事に終了して、ほっとしている気分。肩の荷がおりた後の雨というのもいいもの。とはいえ、今度は12日に早稲田大学文学部の午後4時頃からの教室、おそらく33号館、または32号館において、披講の実践があります。これは中島宝城先生の和歌の特別講義が早稲田大学文学部においてあり、そこで披講の実践を行うというもの。関心がある人はいらしてください。自由に出席できると思います。披講は日本文化の根底に位置するものでありながら、これまであまり関心が払われていませんでしたが、このところ急に文学界においても注目を集め始めています。私が主催する星と森披講学習会の活動も、けっこう多方面からお呼びがかかり、今回は早稲田の授業で行うことになりました。また今月下旬にはある大使館公邸にて和歌披講による歌会が予定されています。かえって外国の文化通の方のほうが、偏見がなくてわかってくれるということが多いです。4月にはタンザニア大使公邸において披講したのですが、大変好評でした。このときはタンザニア大使ご夫妻、そして故高円宮妃にご覧いただくという栄誉でした。とはいえ、まだまだ披講に対する関心は雅楽に比べると何十分の一程度で、なんで大陸経由の雅楽があれほど人気があるのに、日本生粋の披講には関心がないのか、不思議な気持ちになりますが、そんなものなのでしょうか。雅楽も素晴らしいですが、披講は格の違う重みがある、なんていったらきっとしかられるでしょうが、まあ、凄いものです。うまくいえませんが、物言わぬ世界にも通じるものがあり、披講をはじめるとちまたにあふれている霊が聞き入ってくれる気配があり、空気がざわざわしていたのが、さーっと静まっていくのがわかります。色々な霊が聞いてくれるのです。文芸にはほとんど鎮魂の力がありますが、披講のそれは特筆できるでしょう。幽玄の世界に足を踏み入れる能、そして幽玄の世界と交流する披講は、まさに日本文化の根底に位置するものであることが、いずれはっきり認識されるようになることでしょう。文化の根の部分には、必ず、声の文化があるのです。もともと天皇が中心になって歌会が模様された際、和歌を披講することで歌会は進行するのですが、御茶や華道、和食、装束、作法、各種美術は、歌会の一部の要素として発展していったわけで、日本文化の根底には、実は和歌披講があったのです。西洋音楽界の結構重鎮的な人が最近披講に関心を寄せる傾向が出ています。その理由は、西洋音楽を習った人たちは、海外に行って、アイデンティティを失ってしまい、自分の音楽のよって立つ原点がないことに、優秀な人であればあるだけ気付くのです。その際、日本の音楽の原点を求めて、披講に行き着き、それを学ぼう、という人が多くなっている。面白い現象が起きています。披講に限らず、行き詰ったときに大切なものは、原点が何であるか、ということになるわけです。自分の根が何なのか、根のない人は行き詰ったときに立ち直りが難しいわけですから、根が大切な時代という気がする。ホロスコープでも南半球の上の方がにぎやかだと、世間的には華やかな印象をうけますが、下のほうがさびしいと、どうしてもむなしさが付きまとう。私は10室も根の4室もどちらもにぎやかなほうでむなしさをむなしいままに受け入れ、それを味に変える感性があるけど、根が弱いと、むなしさからどうしても逃げる人生になります。逃げると生涯追いかけられるわけで、むなしさを味わうことは実は大事なんです。むなしさを味わうところから、実は文化が起きてくる。個人でも、存在の希薄さに悩むとき、人は何か文化活動を始めたくなるもの。テスト前に本が読みたくなる心理に似ているかも。ディズニーやラスベガスも面白いが、あの裏に隠されていく人間のむなしさを、アメリカ文化はどのように解消するのだろうか。そうおもうと気が重くなる。ただその分、助け合いや互助制度がアメリカではすすんだのかもしれないね。