月はポルックスを通過

あっという間にもう金曜日。個人的にとても忙しい週だった。来週もきっと忙しい。毎年立春に自分の易を立てる。自分の一年を占うわけだ。ソーラーリターン以外に易でも占うのがこの数十年のならい。今年はグランドクロスの中での占いだから、おそらく厳しい卦がでることを覚悟して占った。しかし地味ではあるものの安定した卦が出た。安定、ああ、なんといい響き。この数年波乱が多かった。しかしもっとも波乱にとんだグランドクロスの中で安定した運気とは。グランドクロスはいわば十字架にかけられている状態なので、安定しているのかもしれない。みずがめ座、しし座、さそり座にシグニフィケーターを持つ私は、もろグランドクロス状態。しか、も土星と180度だから星の上ではかなり厳しい。以前、進行の太陽が基地の土星と180度、進行の月も悪く、トランジットも追い討ちをかけたときがあり、かなり危ないとおもったけど、結構乗り切ったときがある。星占いはあらかじめ予測することで、たとえば最悪期を前もって覚悟すると運勢的にそれが達成したと受け取ってくれる場合が多い。その意味でも、知っていて損はしない。用事ができたので、またあとで付け足して書きます。
 運勢は受け止めた人にはそれ以上追いかけないクセがある。逃げれば逃げるほど犬が追いかけてくるのに似ていて、逃げなければなんということはない、、ということがあるのだ。やりくりしない人のほうが悪い運は早く過ぎ去る。その点、潔さのない防衛心はもっとも損するパターンとなる。競馬と同じであきらめが肝腎。あきらめは明らかに見る、という意味とか。呼吸だって吸うばかりか、半分は吐く呼吸だ。良いとき、悪いときの織り成す姿がいいのかも。まあ、こういうことは頭ではだれだってわかっている。しかし競馬で負ければ、あの馬さえ来なければ、、、あと10メートルあったら、、と、後悔しきりとなるのが常。一生君を愛する、、という告白も、ほとんどは違ったものにいづれはなるが、では、一生愛する、、という言葉は単なるウソであるのか。そうは思わない。その時の気持ちの真実なのだから。一生かどうかはわかりませんが、まあ、大体はダメになるものですが、今は愛してますよ、、、といわれてもぜんぜん嬉しくない。私がもっとも尊敬する人の一人である森田正馬は、人は悪く言われれば怒り、よく言われれば、そんなことはないと謙遜する、、その人情の自然が美しいと言った。営みの美しさである。ゲートのファウストでも人間の営みの美しさを見て、時間よ止まれ、とファウストは叫び、絶命する。古今東西、同じなのだろう。しかしゲートはファウストの中で、ファウストの魂を全智と言っている。これは恐ろしい誤解である。ゲーテの分身としての期待をおそらく持ったファウストを全智扱いするとはゲーテは恥知らずと言える。当時吹き荒れた主知主義に完全にそまり、自分を最高の知性、全智とする恥ずかしい話でもあると私は感じる。歳行ったとき、ゲーテはファウストの前編と後編とを比べてどんなに後編のほうが優れている、、と言わんばかりだったようだが、私はやはり前編のグレートヘンとの恋物語のほうがピンとくる。ファウストが母なる鍵を持って、へーレナに会いに行き、恋人になる後編の話など、やはりどう考えても老いぼれた印象を持つ。ゲーテ研究科が聞いたら真っ赤になって怒るだろうが、やっぱりおかしいです。少なくとも全智というのは。まだ日本のわび、さび、さらにかろみ、などのほうが数段上の気がするけど。しかし、ゲーテの文章はやはり美しいですね。命の鼓動がいきいきとうちはじめて、あかつきの光輝にやさしくそのあいさつをおくる、、、後半の冒頭だけど、ほんとうにきれいです。なんだかんだ言いながら私はファウストは大好きで、学生時代に何回も読んだ。尊敬していた活動家の先輩がファウストの話をするので、私も大好きです、、と言うと、おれは色々な文学を読んだが、ファウストだけは何度読んでも意味がわからない、、と聞いて、驚いたことがある。私はマルクスを読んでもわからなかったが、ファウストがわからないとはその意味がわからなかった。以来、学生運動に関心をなくした。また清水谷公園で学生と警官が一触即発の緊張にあったとき、その乱闘前の静けさの中で、突然、石焼いも、、、と石焼いも屋の声がして、警官も学生も大笑いとなったことがある。私はそのとき完全にイデオロギーを捨てたのである。写真は私の書斎。