2003年07月18日(金)曇り

今月の5日に短歌大会も無事に終えたが、その分できないでいた仕事がどっさりと溜まってます。しかし今ながらに思うけど、短歌を歌うのは素晴らしい。本当に素晴らしい詩かどうかは、実際にメロディにして歌うとわかります。あらゆる文化の中心に歌があることは間違いのないことでしょう。なのに意外にこの評価が低いんです。芸術分野の中で、短歌は低いといっては何ですが、美術や他の音楽に較べてちょっと違った扱い方をされている。雅楽の中での位置もあいまいだし、日本文化の根源が短歌であることは、調べればわかるし、直感的にも当然人はそう理解しているだろう、、、と思っていたのですが、実際はそうは受け取られていないので、愕然とする思いが実はあります。国技館があり、国技として相撲があれだけ隆盛を維持できてるのに、日本文化の中心にある短歌を歌う場所がない、要するに披講館があってもいいのですが。私がもしお金持ちになれたら、披講館を作ります。今は冷泉家が歌の家として残っており、その意味は非常に大きいですが、一家で維持できる重さのものではなく、もっともっと色々な形で、維持発展しなくてはならないものなんです。宮中歌会始めは、皇室の行事のなかでもとくに重要なものですが、年の始めに、天皇が国の安寧をこめて、歌で命を吹き込むもの。歌がなければ、始まらない、、、ということなんです。とくに日本の短歌は、和歌と呼ばれており、和の歌です。要するに、その昔、世界各地に色々な文明が起こり、伝わりに伝わって、極東の果ての日本にやってきたことは、これからハッキリしてくることでしょう。地勢的に当然のことなんですが。しかし他のおおくの国と言うか地域では、あたらしいものが来ると、土着のものとやっつけるかやっつけられるか、という戦いを生じるのですが、日本はその多くを和にして異質の物同士をまとめた極めてまれな歴史をもっています。その中心にあったものが短歌なんです。ですから、今後、世界の中で、いがみあい、戦い、憎しみが増大し、不安定になっていくとき、もうどの神でもまとめることができなくなる。最後は歌の神でしかまとめられない、、その本質が和歌にはあるんですね。新しい時代を開くのは、歌の神、踊りの神、笑いの神。そうでなければジエンド。政治やまして力であるわけはありません。簡単なことですが、誰も理解してくれません。理解は不要かもしれませんが、直感で感じてくれる人がいてくれるはず。というか、実際に短歌というからわからないだけで、今だって歌が世界をつくり、リードしているんですよね。高度経済成長期の日本でも、やはりその頃は多くの流行歌があり、人を引っ張ったんです。今は、昔の歌の蒸し返しが人気があるけど、新しいものはあまりないですね。若い人にも力がないわけなんです。日本語の力が衰えているからで、そのためにも和歌の復活が私は勝手に大切だとおもっている。そのためには、実際に小さな歌会をやっていくのがベターなんです。恒例行事意外で、小さな歌会を機会あるごとにやってるのは、おそらく私だけではないのかな。そんなことはどうでもいいけど、とにかく歌会は楽しい。